『金剛経』の重要ポイント要約
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無我:仏陀は、永遠不変の「我」や「衆生」の存在はないと強調しています。これらは私たちがコミュニケーションを容易にするために使用する概念に過ぎません。
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空性:あらゆる事物に固定不変の本質はありません。仏陀は、いかなる概念や現象の実在性にもとらわれるべきではないと繰り返し強調しています。
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般若智慧:真の智慧は外見や形式にあるのではなく、事物の本質に対する深い理解にあります。
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不執着:修行者は、善行や功徳への執着を含め、様々な概念や現象への執着を手放すべきです。
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相対性の超越:仏陀は、有無、来去、善悪などの二元対立の思考方法を超越するよう教えています。
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如幻観:世の中のあらゆるものは夢幻泡影のようであり、このような智慧で世界を観察すべきです。
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言語表現の限界:言語や概念には限界があり、究極の真理を完全に表現することはできません。
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菩提心:菩提心を起こし、最高の悟りを追求することを奨励しています。これは自分のためだけでなく、衆生のためでもあります。
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法身:真の仏は外見的特徴によって識別されるのではなく、真理の完全な悟りを通じて現れます。
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般若波羅蜜:智慧の重要性を強調し、智慧を理解し広めることの功徳は物質的な布施よりもはるかに大きいと考えています。
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無住生心:善行を行う際には善行の考えにとらわれずに、心の自由を保つべきです。
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真如不動:真理を理解し説明する際には、心を静かに保ち、外界に動揺されないようにすべきです。
これらのポイントは、『金剛経』の核心的な教えを構成しており、人々が表面的なものを超越し、万物の本質を理解し、究極の解脱の境地に達することを目指しています。
『金剛経』読経参考動画
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『金剛経』全文
このように私は聞いた:
ある時、仏はシャーラヴァスティー国の祇樹給孤独園にて、千二百五十人の大比丘衆と共におられた。その時、世尊は食事の時刻に、衣を着け鉢を持って、シャーラヴァスティーの大城に托鉢に入られた。その城中で順次に托鉢を終えられ、本処に戻られた。食事を済ませ、衣鉢を収め、足を洗い、座を設けて坐られた。
その時、長老須菩提が大衆の中から立ち上がり、右肩を露わにし、右膝を地につけ、合掌して恭敬に仏に申し上げた:「稀有なるかな!世尊!如来はよく諸菩薩を護念し、よく諸菩薩に付嘱されます。世尊!善男子、善女人が無上正等正覚の心を発した時、どのように住すべきでしょうか?どのようにしてその心を降伏すべきでしょうか?」
仏は言われた:「善いかな、善いかな!須菩提よ!汝の言う通りだ:『如来はよく諸菩薩を護念し、よく諸菩薩に付嘱する。』汝はよく聞きなさい。汝のために説こう。善男子、善女人が無上正等正覚の心を発した時、このように住し、このようにその心を降伏すべきである。」「はい、世尊!喜んでお聞きしたいと思います。」
仏は須菩提に告げられた:「諸菩薩摩訶薩はこのようにその心を降伏すべきである:『一切の衆生の類、卵生、胎生、湿生、化生、有色、無色、有想、無想、非有想非無想のすべてを、私はみな無余涅槃に入らしめ、滅度させよう。このように無量無数無辺の衆生を滅度させても、実際には滅度を得た衆生は一人もいない。』なぜか?須菩提よ!もし菩薩に我相、人相、衆生相、寿者相があれば、それは菩薩ではない。」
「さらに、須菩提よ!菩薩は法において住するところがあってはならず、布施を行うべきである。すなわち色に住して布施せず、声・香・味・触・法に住して布施しない。須菩提よ!菩薩はこのように布施すべきで、相に住してはならない。なぜか?もし菩薩が相に住さずに布施するなら、その福徳は計り知れない。」
「須菩提よ!どう思うか?東方の虚空は計り知れるか?」「いいえ、世尊!」
「須菩提よ!南西北方、四維上下の虚空は計り知れるか?」「いいえ、世尊!」
「須菩提よ!菩薩が相に住さずに布施する福徳も、同じように計り知れない。須菩提よ!菩薩はただ教えられたように住すべきである。」
「須菩提よ!どう思うか?身相によって如来を見ることができるか?」「いいえ、世尊!身相によって如来を見ることはできません。なぜなら、如来の説かれた身相は、即ち身相ではないからです。」
仏は須菩提に告げられた:「およそ相あるものは、みな虚妄である。もし諸相が相でないと見れば、すなわち如来を見る。」
須菩提は仏に申し上げた:「世尊!このような言説章句を聞いて、真実の信を生じる衆生がいるでしょうか?」
仏は須菩提に告げられた:「そのような言葉を発してはならない。如来の滅後、後の五百年に、戒を守り福を修める者がいて、この経文に信心を生じ、これを真実と信じるならば、その人は一仏、二仏、三四五仏のもとで善根を植えたのではなく、すでに無量千万の仏のもとで諸々の善根を植えたのである。この経文を聞いて、わずか一念でも清らかな信心を生じる者は、須菩提よ!如来はすべてを知り、すべてを見ており、これらの衆生が得る無量の福徳を知っている。なぜか?これらの衆生には、もはや我相、人相、衆生相、寿者相がない。法相もなく、非法相もない。なぜか?これらの衆生が心に相を取れば、すなわち我、人、衆生、寿者に執着することになる。法相を取れば、すなわち我、人、衆生、寿者に執着することになる。なぜか?非法相を取れば、すなわち我、人、衆生、寿者に執着することになる。それゆえ、法を取るべきではなく、非法を取るべきでもない。この意味で、如来は常に言う:『汝ら比丘たちよ、私の説く法が筏の喩えのようであることを知れ。法さえも捨てるべきである。まして非法をや。』」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来は無上正等正覚を得たのか?如来には説く法があるのか?」
須菩提は言った:「私が仏の説かれた意味を理解するところでは、無上正等正覚と名付けられる定まった法はなく、また如来が説くことのできる定まった法もありません。なぜでしょうか?如来の説かれる法は、すべて取ることができず、説くことができず、法でもなく、非法でもありません。なぜならば?すべての賢聖は、無為の法によって差別があるのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?もし人が三千大千世界に七宝を満たして布施したならば、その人の得る福徳は多いだろうか?」
須菩提は言った:「とても多いです、世尊よ!なぜでしょうか?その福徳はすなわち福徳の性質ではないからです。それゆえに如来は福徳が多いと説かれるのです。」「もしまた、ある人がこの経の中から受持し、わずか四句の偈でも他人のために説くならば、その福徳は前者に勝ります。なぜでしょうか?須菩提よ!すべての諸仏と諸仏の無上正等正覚の法は、すべてこの経から出るのです。須菩提よ!いわゆる仏法とは、すなわち仏法ではないのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?須陀洹はこのような念を起こすことができるだろうか:『私は須陀洹果を得た。』と?」
須菩提は言った:「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?須陀洹とは流れに入ることを名付けますが、実際には入るところがなく、色・声・香・味・触・法に入らない、これを須陀洹と名付けるのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?斯陀含はこのような念を起こすことができるだろうか:『私は斯陀含果を得た。』と?」
須菩提は言った:「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?斯陀含とは一往来を名付けますが、実際には往来がない、これを斯陀含と名付けるのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?阿那含はこのような念を起こすことができるだろうか:『私は阿那含果を得た。』と?」
須菩提は言った:「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?阿那含とは不来を名付けますが、実際には来ることがない、それゆえに阿那含と名付けるのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?阿羅漢はこのような念を起こすことができるだろうか:『私は阿羅漢道を得た。』と?」
須菩提は言った:「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?実際には阿羅漢と名付ける法はないのです。世尊よ!もし阿羅漢がこのような念を起こしたならば:『私は阿羅漢道を得た。』と、すなわち我・人・衆生・寿者に執着することになります。世尊よ!仏は私が無諍三昧を得て、人々の中で最も第一であり、これが第一の離欲の阿羅漢だと説かれました。私はこのような念を起こしません:『私は離欲の阿羅漢である。』と。世尊よ!もし私がこのような念を起こしたならば:『私は阿羅漢道を得た。』と、世尊は須菩提が阿蘭那行を楽しむ者であると言われないでしょう!須菩提は実際には何も行わないが、須菩提は阿蘭那行を楽しむ者と名付けられるのです。」
仏は須菩提に告げられた:「あなたはどう思うか?如来が昔、燃燈仏のもとにいたとき、法について何かを得たか?」「世尊よ!如来は燃燈仏のもとで、法について実際には何も得ませんでした。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?菩薩は仏国土を荘厳するか?」「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?仏国土を荘厳するとは、すなわち荘厳ではありません。これを荘厳と名付けるのです。」
「それゆえに須菩提よ、諸菩薩摩訶薩はこのように清浄な心を生じるべきであり、色に住して心を生じるべきではなく、声・香・味・触・法に住して心を生じるべきではありません。住するところなく心を生じるべきです。」
「須菩提よ!たとえば、ある人の身体が須弥山王のようであったとしたら、あなたはどう思うか?この身体は大きいだろうか?」須菩提は言った:「とても大きいです、世尊よ!なぜでしょうか?仏は身体ではないと説かれ、これを大身と名付けるのです。」
「須菩提よ!ガンジス川にある砂の数のように、そのような砂と同じ数のガンジス川があるとしたら、あなたはどう思うか?これらのガンジス川の砂は多いだろうか?」須菩提は言った:「とても多いです、世尊よ!ガンジス川だけでも数え切れないほど多いのに、ましてその砂をや。」
「須菩提よ!私は今、真実の言葉をあなたに告げよう。もし善男子、善女人が、七宝でそれほどのガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界を満たして布施したとしても、福徳は多いだろうか?」須菩提は言った:「とても多いです、世尊よ!」
仏は須菩提に告げられた:「もし善男子、善女人が、この経の中からわずか四句の偈でも受持し、他人のために説くならば、その福徳は前の福徳に勝るのである。」
「さらに、須菩提よ!この経を説くとき、わずか四句の偈であっても、この場所は、一切世間の天、人、阿修羅がすべて供養すべきであり、まるで仏塔のようである。まして完全に受持し読誦できる人がいるならば、なおさらである。須菩提よ!その人が最上第一の希有なる法を成就していることを知るべきである。もしこの経典がある場所には、すなわち仏がおられ、尊重すべき弟子がいるのである。」
その時、須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!この経をどのように名付けるべきでしょうか?私たちはどのように奉持すべきでしょうか?」
仏は須菩提に告げられた:「この経は『金剛般若波羅蜜』と名付ける。この名前で、あなたは奉持すべきである。なぜならば、須菩提よ!仏が説く般若波羅蜜は、すなわち般若波羅蜜ではない。須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には説く法があるだろうか?」須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!如来には説くところはありません。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?三千大千世界にある微塵は多いだろうか?」須菩提は言った:「とても多いです、世尊よ!」
「須菩提よ!諸々の微塵について、如来は微塵ではないと説き、これを微塵と名付ける。如来は世界について説くが、世界ではなく、これを世界と名付ける。」「須菩提よ!あなたはどう思うか?三十二相で如来を見ることができるだろうか?」「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?如来が説く三十二相は、すなわち相ではなく、これを三十二相と名付けるのです。」
「須菩提よ!もし善男子、善女人が、ガンジス川の砂ほどの身命を布施したとしても、もしまた、ある人がこの経の中から、わずか四句の偈でも受持し、他人のために説くならば、その福徳はとても多い。」
その時、須菩提はこの経を聞いて、深くその意味を理解し、涙を流して悲しみ、仏に申し上げた:「希有なることです、世尊よ!仏がこのように甚深な経典を説かれました。私は昔から得ていた慧眼でも、かつてこのような経を聞いたことがありません。世尊よ!もしまた、ある人がこの経を聞いて、清浄な信心を生じるならば、すなわち実相を生じるのです。この人が第一の希有なる功徳を成就していることを知るべきです。世尊よ!この実相とは、すなわち相ではありません。それゆえに如来は実相と名付けるのです。世尊よ!私は今、このような経典を聞くことができ、信解し受持することは難しくありません。もし未来世、後の五百年に、衆生がこの経を聞いて、信解し受持するならば、その人は第一に希有な存在です。なぜでしょうか?この人には我相、人相、衆生相、寿者相がないからです。なぜならば?我相はすなわち相ではなく、人相、衆生相、寿者相もすなわち相ではないからです。なぜでしょうか?一切の諸相を離れれば、すなわち諸仏と名付けられるのです。」
仏は須菩提に告げられた:「そのとおりである、そのとおりである!もしまた、ある人がこの経を聞いて、驚かず、怖れず、恐れないならば、その人はとても希有な存在であることを知るべきである。なぜか?須菩提よ!如来が説く第一波羅蜜は、第一波羅蜜ではなく、これを第一波羅蜜と名付ける。須菩提よ!忍辱波羅蜜について、如来は忍辱波羅蜜ではないと説く。なぜか?須菩提よ!私が昔、歌利王に身体を切り刻まれたとき、私にはその時、我相も、人相も、衆生相も、寿者相もなかった。なぜか?私が過去に体を切り刻まれたとき、もし我相、人相、衆生相、寿者相があったならば、怒りと恨みが生じたはずである。須菩提よ!また、過去五百世に忍辱仙人であったことを思い出すが、そのすべての世において、我相も、人相も、衆生相も、寿者相もなかった。それゆえに須菩提よ!菩薩はすべての相を離れ、無上正等正覚の心を発すべきであり、色に住して心を生じるべきではなく、声・香・味・触・法に住して心を生じるべきではない。住するところのない心を生じるべきである。もし心に住するところがあれば、すなわち住していないのである。それゆえに仏は説く:『菩薩の心は色に住して布施すべきではない。』」
「須菩提よ!菩薩は一切衆生を利益するために、このように布施すべきである。如来は説く:『一切の諸相は、すなわち相ではない。』また説く:『一切の衆生は、すなわち衆生ではない。』」
「須菩提よ!如来は真実を語る者、実を語る者、如くに語る者、欺かない者、異ならざる者である。」
「須菩提よ!如来の得た法は、この法に実も虚もない。須菩提よ!もし菩薩の心が法に住して布施を行えば、暗闇に入った人のように、何も見ることができない。もし菩薩の心が法に住せずに布施を行えば、目のある人が日光に照らされて、様々な色を見るようなものである。須菩提よ!未来の世に、もし善男子、善女人がこの経を受持し読誦できるならば、如来は仏の智慧をもって、この人を悉く知り、この人を悉く見て、皆が無量無辺の功徳を成就することを知るのである。」
「須菩提よ!もし善男子、善女人が、朝にガンジス川の砂ほどの身を布施し、昼にもガンジス川の砂ほどの身を布施し、夕方にもガンジス川の砂ほどの身を布施し、このように無量百千万億劫にわたって身を布施したとしても、もしまた、ある人がこの経典を聞いて、信心をもって逆らわないならば、その福徳は前者に勝る。まして書写し、受持し,読誦し,人のために解説するならば、なおさらである。」
「須菩提よ!要するに、この経には不可思議、不可称量、無辺の功徳がある。如来は大乗を発する者のために説き、最上乗を発する者のために説く。もし人がこれを受持し読誦し、広く人のために説くことができれば、如来はこの人を悉く知り、この人を悉く見て、皆が量ることのできない、称することのできない、辺のない、不可思議な功徳を成就することを知る。このような人々は、すなわち如来の無上正等正覚を担うのである。なぜか?須菩提よ!もし小法を好む者は、我見、人見、衆生見、寿者見に執着し、この経を聞くことも、受持することも、読誦することも、人のために解説することもできない。」
「須菩提よ!どこであれ、この経があるところには、一切世間の天、人、阿修羅がすべて供養すべきである。この場所が塔であることを知るべきであり、皆が恭敬し、礼拝し、周りを巡り、様々な花や香をその場所に散布すべきである。」
「さらに、須菩提よ!善男子、善女人が、この経を受持し読誦するとき、もし人に軽んじられるならば、この人は前世の罪業によって悪道に落ちるはずだったが、今世の人に軽んじられることで、前世の罪業は消滅し、無上正等正覚を得ることになるだろう。」
「須菩提よ!私は過去無量阿僧祇劫において、燃燈仏の前で、八百四千万億那由他の諸仏に出会い、すべてを供養し奉仕し、空しく過ごすことはなかった。もしまた、ある人が、後の末世にこの経を受持し読誦できるならば、その得る功徳は、私が諸仏を供養した功徳の百分の一にも及ばず、千万億分の一にも、乃至算数や譬喩でも及ぶことができない。」
「須菩提よ!もし善男子、善女人が、後の末世にこの経を受持し読誦し、その得る功徳を私が詳しく説くならば、あるいは人がそれを聞いて、心が狂乱し、疑って信じないかもしれない。須菩提よ!この経の意味は不可思議であり、その果報も不可思議であることを知るべきである。」
その時、須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!善男子、善女人が無上正等正覚の心を発したとき、どのように住すべきでしょうか?どのようにその心を降伏すべきでしょうか?」
仏は須菩提に告げられた:「善男子、善女人が無上正等正覚を発する者は、このような心を生じるべきである:『私はすべての衆生を滅度させるべきである。すべての衆生を滅度させた後も、実際に滅度した衆生は一人もいない。』なぜか?もし菩薩に我相、人相、衆生相、寿者相があれば、それは菩薩ではない。なぜならば、須菩提よ!実際には無上正等正覚を発する法はないのである。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来は燃燈仏のもとで、法を得て無上正等正覚を得たのだろうか?」「いいえ、世尊よ!私が仏の説かれた意味を理解するところでは、仏は燃燈仏のもとで、無上正等正覚を得る法はありませんでした。」
仏は言われた:「そのとおりである、そのとおりである!須菩提よ!実際には如来が無上正等正覚を得た法はない。須菩提よ!もし如来が無上正等正覚を得た法があれば、燃燈仏は私に『汝は来世に仏となり、釈迦牟尼と号するであろう。』と授記しなかっただろう。実際には無上正等正覚を得る法がないからこそ、燃燈仏は私に授記して、このように言ったのである:『汝は来世に仏となり、釈迦牟尼と号するであろう。』なぜか?如来とは、すなわち諸法の如くの義である。」
「もし人が『如来は無上正等正覚を得た。』と言うならば、須菩提よ!実際には仏が無上正等正覚を得た法はない。須菩提よ!如来の得た無上正等正覚には、その中に実も虚もない。それゆえに如来は説く:『一切法はすべて仏法である。』須菩提よ!一切法と言うものは、すなわち一切法ではない。それゆえに一切法と名付けるのである。」
「須菩提よ!たとえば人の身体が大きいようなものである。」須菩提は言った:「世尊よ!如来が説く人の身体が大きいというのは、すなわち大きな身体ではなく、これを大きな身体と名付けるのです。」
「須菩提よ!菩薩もまたそのようである。もし『私は無量の衆生を滅度させよう。』と言うならば、菩薩とは名付けられない。なぜか?須菩提よ!菩薩と名付ける法はない。それゆえに仏は説く:『一切法には我もなく、人もなく、衆生もなく、寿者もない。』須菩提よ!もし菩薩が『私は仏国土を荘厳しよう。』と言うならば、それは菩薩とは名付けられない。なぜか?如来が説く仏国土を荘厳するとは、すなわち荘厳ではなく、これを荘厳と名付けるのである。須菩提よ!もし菩薩が無我の法を通達するならば、如来はそれを真の菩薩と名付ける。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には肉眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には肉眼があります。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には天眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には天眼があります。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には慧眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には慧眼があります。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には法眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には法眼があります。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には仏眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には仏眼があります。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?ガンジス川にある砂について、仏はこれを砂と言うだろうか?」「はい、世尊よ!如来はこれを砂と言われます。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?一つのガンジス川にある砂のように、そのような数のガンジス川があり、それらのガンジス川にある砂の数ほどの仏世界があるとしたら、それは多いだろうか?」「とても多いです、世尊よ!」
仏は須菩提に告げられた:「それほどの国土の中にいる衆生の、様々な種類の心を、如来はすべて知っている。なぜか?如来が説く諸々の心は、すべて心ではなく、これを心と名付けるのである。なぜならば、須菩提よ!過去の心は得ることができず、現在の心は得ることができず、未来の心は得ることができないからである。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?もし人が三千大千世界に七宝を満たして布施したならば、この人はこの因縁によって、多くの福を得るだろうか?」「はい、世尊よ!この人はこの因縁によって、とても多くの福を得ます。」
「須菩提よ!もし福徳に実があれば、如来は福徳が多いとは言わない。福徳がないからこそ、如来は福徳が多いと言うのである。」「須菩提よ!あなたはどう思うか?仏は具足した色身で見ることができるだろうか?」「いいえ、世尊よ!如来は色身で見るべきではありません。なぜでしょうか?如来が説く具足した色身は、すなわち具足した色身ではなく、これを具足した色身と名付けるのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来は具足した諸相で見ることができるだろうか?」「いいえ、世尊よ!如来は具足した諸相で見るべきではありません。なぜでしょうか?如来が説く諸相の具足は、すなわち具足ではなく、これを諸相の具足と名付けるのです。」
「須菩提よ!あなたは如来がこのように考えていると思ってはならない:『私は法を説くべきである。』そのように考えてはならない。なぜか?もし人が『如来には説く法がある。』と言えば、それは仏を謗ることになり、私の説くところを理解できないからである。須菩提よ!法を説く者には、説くべき法がない。これを法を説くと名付けるのである。」その時、慧命須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!未来世に、この法を聞いて信心を生じる衆生はいるでしょうか?」
仏は言われた:「須菩提よ!彼らは衆生でもなく、衆生でないわけでもない。なぜか?須菩提よ!衆生、衆生と言うものは、如来が説くには衆生ではなく、これを衆生と名付けるのである。」須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!仏は無上正等正覚を得られましたが、それは何も得ていないということでしょうか?」
「そのとおりである、そのとおりである!須菩提よ!私は無上正等正覚において、わずかな法も得ることはない。これを無上正等正覚と名付けるのである。」
「さらに、須菩提よ!この法は平等であり、高下がない。これを無上正等正覚と名付ける。我もなく、人もなく、衆生もなく、寿者もなく、一切の善法を修めれば、すなわち無上正等正覚を得る。須菩提よ!善法と言うものは、如来が説くには善法ではなく、これを善法と名付けるのである。」
「須菩提よ!もし三千大千世界にあるすべての須弥山王のような七宝の山があり、人がそれを持って布施したとしても、もし人がこの般若波羅蜜経から、わずか四句の偈でも受持し、他人のために説くならば、前者の福徳の百分の一にも及ばず、百千万億分の一にも、乃至算数や譬喩でも及ぶことができない。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?あなたたちは如来がこのように考えていると思ってはならない:『私は衆生を度すべきである。』須菩提よ!そのように考えてはならない。なぜか?実際には如来が度す衆生はいない。もし如来が度す衆生がいるならば、如来には我、人、衆生、寿者があることになる。須菩提よ!如来が説くには『我があると言う者は、すなわち我がない。』しかし凡夫の人は我があると思う。須菩提よ!凡夫と言うものは、如来が説くには凡夫ではない。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?三十二相で如来を観ることができるだろうか?」須菩提は言った:「はい、そうです!三十二相で如来を観ることができます。」
仏は言われた:「須菩提よ!もし三十二相で如来を観るならば、転輪聖王も如来ということになる。」須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!私が仏の説かれた意味を理解するところでは、三十二相で如来を観るべきではありません。」
その時、世尊は偈を説かれた:「もし色で我を見、音声で我を求めるならば、その人は邪道を行き、如来を見ることはできない。」
「須菩提よ!あなたがこのように考えてはならない:『如来は具足した相によって、無上正等正覚を得たのではない。』須菩提よ!そのように考えてはならない:如来は具足した相によって、無上正等正覚を得たのではない。」
「須菩提よ!あなたがこのように考えてはならない:『無上正等正覚を発する者は、諸法が断滅すると説く。』そのように考えてはならない。なぜか?無上正等正覚を発する者は、法について断滅の相を説かないからである。」
「須菩提よ!もし菩薩がガンジス川の砂ほどの世界に七宝を満たして布施したとしても、もしまた、ある人がすべての法に我がないことを知り、忍を成就するならば、この菩薩は前の菩薩の得た功徳に勝る。須菩提よ!諸々の菩薩は福徳を受けないからである。」
須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!どうして菩薩は福徳を受けないのでしょうか?」
「須菩提よ!菩薩の作る福徳は、貪着すべきではない。それゆえに福徳を受けないと言うのである。」
「須菩提よ!もし人が『如来は来たり去ったり、座ったり臥したりする。』と言うならば、その人は私の説く意味を理解していない。なぜか?如来とは、来るところもなく、去るところもない。それゆえに如来と名付けるのである。」
「須菩提よ!もし善男子、善女人が、三千大千世界を砕いて微塵にしたとしたら、あなたはどう思うか?この微塵の数は多いだろうか?」
「とても多いです、世尊よ!なぜでしょうか?もしこの微塵の数が実際にあるならば、仏はこれを微塵の数とは言わないでしょう。なぜならば?仏が説く微塵の数は、すなわち微塵の数ではなく、これを微塵の数と名付けるのです。世尊よ!如来が説く三千大千世界は、すなわち世界ではなく、これを世界と名付けるのです。なぜでしょうか?もし世界が実際にあるならば、それは一つの合した相です。如来が説く一つの合した相は、すなわち一つの合した相ではなく、これを一つの合した相と名付けるのです。」
「須菩提よ!一つの合した相とは、すなわち説くことができないものである。ただ凡夫の人がその事に貪着するだけである。」
「須菩提よ!もし人が『仏は我見、人見、衆生見、寿者見を説いた。』と言うならば、須菩提よ!あなたはどう思うか?その人は私の説く意味を理解しているだろうか?」
「世尊よ!その人は如来の説く意味を理解していません。なぜでしょうか?世尊が説く我見、人見、衆生見、寿者見は、すなわち我見、人見、衆生見、寿者見ではなく、これを我見、人見、衆生見、寿者見と名付けるのです。」
「須菩提よ!無上正等正覚の心を発する者は、一切法について、このように知り、このように見、このように信解し、法相を生じないようにすべきである。須菩提よ!法相と言うものは、如来が説くには法相ではなく、これを法相と名付けるのである。」
「須菩提よ!もし人が無量阿僧祇世界に七宝を満たして布施したとしても、もし善男子、善女人が、菩薩の心を発して、この経を持ち、わずか四句の偈でも、受持し読誦し、人のために演説するならば、その福徳は前者に勝る。どのように人のために演説するのか?相を取らず、如如として動かない。なぜか?一切の有為法は、夢のようであり、幻のようであり、泡のようであり、影のようであり、露のようであり、また稲妻のようである。このように観じるべきである。」
仏がこの経を説き終わると、長老須菩提及び諸々の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、一切世間の天、人、阿修羅は、仏の説かれたことを聞いて、皆大いに喜び、信じ受け奉じて行じた。
《金剛經》白話文翻譯
このように私は聞いた:ある時、仏はシャーラヴァスティー国の祇樹給孤独園にて、千二百五十人の大比丘衆と共におられた。その時、世尊は食事の時刻に、衣を着け鉢を持って、シャーラヴァスティーの大城に托鉢に入られた。その城中で順次に托鉢を終えられ、本処に戻られた。食事を済ませ、衣鉢を収め、足を洗い、座を設けて坐られた。
昔々、舎衛国という場所に、祇樹給孤独園という美しい庭園がありました。ある日、仏陀と1250人の弟子たちがそこで休んでいました。
昼頃、仏陀は托鉢のために町に出かける準備をしました。衣を整え、鉢を手に取り、賑やかな舎衛城に入っていきました。町の中で、仏陀は一軒一軒回り、人々が敬虔に供養する食べ物を受け取りました。
托鉢を終えると、仏陀は満杯の鉢を持って庭園に戻りました。座り、静かに昼食を取りました。食事が終わると、仏陀は丁寧に衣と鉢を片付け、足を洗い、そして快適な場所に座りました。
このとき、ある弟子が好奇心に駆られて尋ねました。「仏陀様、毎日このようにされているのですか?」
仏陀は微笑んで答えました。「そうだ、これが我々の修行の一部なのだ。毎日托鉢に出ることで、我々は食べ物を得るだけでなく、人々とつながり、我々の教えを広めることができるのだ。」
弟子は考え深げにうなずき、言いました。「わかりました。これは体の需要を満たすだけでなく、心を養うためでもあるのですね。」
仏陀は喜ばしげに弟子を見つめ、今日の教えを始める準備をしました。
その時、長老須菩提が大衆の中から立ち上がり、右肩を露わにし、右膝を地につけ、合掌して恭敬に仏に申し上げた:「稀有なるかな!世尊!如来はよく諸菩薩を護念し、よく諸菩薩に付嘱されます。世尊!善男子、善女人が無上正等正覚の心を発した時、どのように住すべきでしょうか?どのようにしてその心を降伏すべきでしょうか?」
仏陀が座ると、弟子たちの中から、須菩提という徳高い長老が立ち上がりました。皆が静まり返ったのを見て、仏陀に重要な質問をする時が来たと感じたのです。
須菩提は立ち上がり、丁寧に袈裟を整え、右肩を露出させました。仏陀の前に進み出て、右膝をつき、両手を合わせ、敬意を込めてこう言いました。「尊敬する仏陀様、あなたは本当に素晴らしい方です!いつも私たち修行者を細やかに世話し、導いてくださいます。一つ質問させていただきたいのですが。」
仏陀は穏やかにうなずき、須菩提に続けるよう促しました。
須菩提は深呼吸をして、尋ねました。「善良な男女が最高の智慧と悟りを求めようとするとき、どのようなアドバイスをされますか?彼らはどのように心を安らかに保ち、内なる悩みと執着を克服すべきでしょうか?」
この質問は、その場にいた全員の注目を集めました。皆が耳を傾け、仏陀の答えを待ち望みました。仏陀は微笑みながら、教えを始める準備をしました。
群衆の中の若い弟子が、隣の仲間に小声で尋ねました。「須菩提長老の質問はどういう意味なんだろう?」
仲間は静かに説明しました。「真の修行者になるにはどうすればいいのか、正しい心構えをどう保ち、私たちの内なる障害をどう克服するかを尋ねているんだよ。これは私たち全員にとって非常に重要な問題なんだ。」
若い弟子は得心し、うなずいて、仏陀の答えを熱心に待ちました。
仏は言われた:「善いかな、善いかな!須菩提よ!汝の言う通りだ:『如来はよく諸菩薩を護念し、よく諸菩薩に付嘱する。』汝はよく聞きなさい。汝のために説こう。善男子、善女人が無上正等正覚の心を発した時、このように住し、このようにその心を降伏すべきである。」「はい、世尊!喜んでお聞きしたいと思います。」
仏陀は須菩提の質問を聞き終えると、満足げな笑みを浮かべました。彼は賞賛の言葉を述べました。「よく言ってくれた、実にすばらしい、須菩提よ!その通りだ、私は確かにすべての修行者を気にかけ、導いてきたのだ。」
仏陀は周りを見渡し、熱心に待っているすべての弟子たちを見つめながら、続けて言いました。「さあ、皆よく聞くのだ。最高の智慧を求めようとする善良な男女が、いかにして心を安らかに保ち、内なる悩みを克服すべきかを、これから話そう。」
須菩提と他の弟子たちは興奮して頷き、口を揃えて言いました。「素晴らしい、仏陀様!私たちはあなたの教えを聞くのを心待ちにしています。」
このとき、群衆の中の年配の弟子が、隣の人に静かに説明しました。
「仏陀様が説かれようとしている『阿耨多羅三藐三菩提心』とは、最高の悟りを求める決意のことです。これは非常に深遠な道理なのです。」
隣にいた若い弟子がそれを聞いて、目を丸くして言いました。「わあ、難しそうですね。仏陀様はどのように説明されるのでしょうか?」
年配の弟子は微笑んで答えました。「焦らずに、仏陀様の教えをよく聞きなさい。きっと私たち全員が理解できるように説明してくださるはずです。」
庭園全体が一瞬にして静まり返り、皆が息を殺して、仏陀の次の教えを集中して待ちました。そよ風が吹き、木の葉がさらさらと音を立て、まるで自然もこれから明かされる知恵に静かに耳を傾けているかのようでした。
仏は須菩提に告げられた:「諸菩薩摩訶薩はこのようにその心を降伏すべきである:『一切の衆生の類、卵生、胎生、湿生、化生、有色、無色、有想、無想、非有想非無想のすべてを、私はみな無余涅槃に入らしめ、滅度させよう。このように無量無数無辺の衆生を滅度させても、実際には滅度を得た衆生は一人もいない。』なぜか?須菩提よ!もし菩薩に我相、人相、衆生相、寿者相があれば、それは菩薩ではない。」
仏陀は慈愛に満ちた眼差しで須菩提を見つめ、教えを始めました。「須菩提よ、偉大な修行者になろうとする者たちは、このように心を落ち着けるべきだ。彼らはこう考えるべきだ。」
仏陀は喉を軽く清め、穏やかながらも確固とした声で言いました。「『この世界には、様々な生命がいる。卵から生まれるもの、母親の胎内で育つもの、湿った場所で育つもの、突然現れるものがいる。目に見えるものもいれば、見えないものもいる。思考を持つものもいれば、持たないものもいる。思考があるとも無いとも言えないものもいる。私はこれらすべての生命を助け、最終的な安らぎと解脱を得させよう。』」
仏陀は一旦話を止め、弟子たちの思慮深い表情を見つめながら続けました。「しかし須菩提よ、ここに重要な秘密がある。無数の生命を解脱させると言いながら、実際には、本当に解脱した生命は一つもない。なぜだかわかるか?」
須菩提と他の弟子たちは困惑して首を振りました。仏陀は微笑みながら説明しました。「なぜなら、もし修行者の心に『私』という概念があり、『他人』『衆生』や『生命』といった固定概念があるならば、その者はまだ真の修行者ではないからだ。」
ここまで聞いて、若い弟子が我慢できずに隣の先輩弟子に小声で尋ねました。「これはどういう意味ですか?矛盾しているように聞こえます。」
先輩弟子は静かに答えました。「仏陀様は、無我の心で他者を助けるよう教えておられるのです。『私が他人を助けている』という考えに執着せず、自然にそうするのです。」
若い弟子は何となく理解したように頷きましたが、顔には考え込む表情が残っていました。
仏陀は弟子たちが真剣に考えている様子を見て、満足げに微笑みました。この教えが深遠で、理解し実践するには時間がかかることを知っていました。しかし、開かれた心と謙虚な態度を保ち続ければ、最終的には皆がこの智慧を悟ることができると信じていました。
「さらに、須菩提よ!菩薩は法において住するところがあってはならず、布施を行うべきである。すなわち色に住して布施せず、声・香・味・触・法に住して布施しない。須菩提よ!菩薩はこのように布施すべきで、相に住してはならない。なぜか?もし菩薩が相に住さずに布施するなら、その福徳は計り知れない。」
仏陀は弟子たちが考え込んでいる様子を見て、さらなる指導が必要だと感じました。そこで、彼は続けて言いました。「須菩提よ、もう一つ重要なことを教えよう。」
須菩提はすぐに仏陀に注目し、さらなる智慧を聞く準備をしました。
仏陀は穏やかに言いました。「真の修行者は、善行を行うとき、いかなるものにも執着すべきではない。特に布施を行うときは、このことに注意しなければならない。」
「布施とは何ですか?」若い弟子が小声で尋ねました。
隣に座っていた長老が説明しました。「布施とは与えること、つまり他人を助けることだ。」
仏陀はうなずき、続けました。「布施を行うとき、我々は見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、味わったもの、触れたもの、あるいは思い浮かべたものに執着すべきではない。」
彼は周りを見回し、全員が真剣に聞いていることを確認してから、強調しました。「修行者はこのように布施すべきだ:いかなる形にも執着せずに。なぜだかわかるか?」弟子たちは首を振り、仏陀の答えを待ちました。
仏陀は微笑んで言いました。「なぜなら、もし人が布施するときにいかなる形にも執着しないならば、その人が得る福徳は言葉では言い表せないほど大きいからだ。」
このとき、年配の弟子が思慮深げに言いました。「仏陀様、つまり、善行をするときに自分が何を得るかを考えるべきではないと教えておられるのですね?」
仏陀は満足げにうなずきました。「その通りだ。よく理解している。大切なのは行為そのものであり、行為がもたらす結果ではない。」
若い弟子は少し困惑した様子で言いました。「でも、結果を気にしないなら、自分が正しいことをしているかどうかどうやって分かるのでしょうか?」
仏陀は慈愛に満ちた眼差しでこの若者を見つめました。「良い質問だ。重要なのは結果を完全に無視することではなく、結果に縛られないことだ。我々は今この瞬間に集中し、純粋な心で他人を助けるべきで、自分が何を得られるかばかり考えるべきではない。」
弟子たちはこれを聞いて、深く考え込みました。庭園は静寂に包まれ、木の葉を撫でる微風の音だけが聞こえました。それぞれが、この深遠で実践的な智慧を理解しようと努めていました。
「須菩提よ!どう思うか?東方の虚空は計り知れるか?」「いいえ、世尊!」
仏陀は弟子たちの考え込んだ表情を見て、比喩を使って彼らの理解を助けることにしました。須菩提の方を向き、穏やかに尋ねました。「須菩提よ、一つ質問がある。」
須菩提はすぐに顔を上げ、恭しく答えました。「はい、仏陀様。謹んでお聞きいたします。」
仏陀は東の空を指さし、尋ねました。「東の空はどれほど広いと思うか?我々にはそれを測ることができるだろうか?」
須菩提は一瞬驚き、それから周りを見回しました。他の弟子たちも空を見上げ、考え込んだ表情を浮かべていました。
若い弟子が小さな声で言いました。「なんと難しい質問でしょう。空はとても広大に見えます。」
隣の先輩弟子がうなずきました。「そうだね、果てしなく続いているように感じる。」
須菩提はしばらく深く考え、それから確信を持って答えました。「いいえ、世尊。私たちには東の空がどれほど広いか測ることはできません。」
「須菩提よ!南西北方、四維上下の虚空は計り知れるか?」「いいえ、世尊!」
佛陀は弟子たちの集中した眼差しを見て、比喩を続けることに決めました。再び須菩提に向き直り、穏やかに尋ねました。「須菩提、では南方、西方、北方の空はどうですか?さらに東南、西南、東北、西北の四つの隅、そして上方と下方の空間について、私たちはその大きさを測ることができるのでしょうか?」
須菩提と他の弟子たちはこの質問を聞くと、思わず空を見上げ、次に地面を見ました。彼らの視線は四方八方を巡り、まるで宇宙の広大さを想像しようとしているかのようでした。
一人の若い弟子が小声で隣の仲間に言いました。「わぁ、想像してみて、宇宙全体がどれほど大きいか!」
その仲間は頷き、応じました。「そうだね、どの方向を見ても、終わりが見えない気がする。」
須菩提は深く息を吸い込み、そして確固たる声で答えました。「いいえ、世尊。これらの方向の空間は測ることができません。」
仏陀は微笑んで頷き、この答えに満足しているようでした。
その時、好奇心旺盛な長老が我慢できずに尋ねました。「仏陀、私たちに何かを教えようとしているのですか?なぜこんなに広大な空間について考えさせるのですか?」
仏陀は慈しみ深くその長老を見つめ、言いました。「良い質問です。私たちは真理に一歩一歩近づいています。もう少し深く掘り下げてみましょう。そうすれば、この比喩の深い意味がわかるでしょう。」
「須菩提よ!菩薩が相に住さずに布施する福徳も、同じように計り知れない。須菩提よ!菩薩はただ教えられたように住すべきである。」
仏陀は弟子たちの期待に満ちた眼差しを見て、この比喩の真の意味を明かす時が来たことを知りました。微笑みながら言いました。「須菩提、先ほど私たちが話した布施のことを覚えていますか?」
須菩提と他の弟子たちは皆頷き、集中して聞いていました。
仏陀は続けました。「修行者が布施をする際、どんな形にも執着せず、報酬を求めずにいられるなら、彼が得る福徳は、今話した宇宙の空間のように、測ることができないほどのものになるのです。」
弟子たちはこれを聞いて、目が輝き始めました。深遠な道理の理解が少しずつ開けてきたようでした。
一人の若い弟子が我慢できずに叫びました。「なんと!つまり、真心からの布施は無限の福徳をもたらすということですか?」
仏陀は慈しみ深く頷きました。「その通りです。宇宙の広大無辺のように、純粋な善行がもたらす福徳も言葉では言い表せないほどのものなのです。」
そこで、須菩提は少し困惑した様子で尋ねました。「仏陀、私たちはどうすればよいのでしょうか?これは非常に高い境地のようですが。」
仏陀は優しく答えました。「須菩提、修行者は私が教えた通りに生きるだけでいいのです。何かを刻意に求める必要はありません。ただ心を込めて実践し、清らかな心を保っていれば、自然とこの境地に達することができるのです。」
これを聞いて、弟子たちは皆、何かを考えているようでした。ある者は、ふと悟ったような表情を浮かべ、他の者は依然として深奥な道理の理解に苦しんでいました。
ある長老が感慨深げに言いました。「仏陀、あなたの教えは本当に言葉に尽くせないほど素晴らしいです。善行の鍵は行為そのものにあるのではなく、私たちの心の在り方にあるのですね。」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「その通りです。清らかで執着のない心を保つことが大切なのです。そうすれば、私たちのあらゆる行為が無限の大きな善行となるのです。」
「須菩提よ!どう思うか?身相によって如来を見ることができるか?」「いいえ、世尊!身相によって如来を見ることはできません。なぜなら、如来の説かれた身相は、即ち身相ではないからです。」
仏陀は弟子たちが考え込んだ表情を見て、さらに深遠な問いを投げかけることにしました。須菩提に向き直り、穏やかに尋ねました。「須菩提、もう一つ質問させてください。私の真の姿を外見から認識できると思いますか?」
須菩提はちょっと呆然としましたが、他の弟子たちも耳を澄まし、答えを待ちわびています。
一人の若い弟子が隣の師兄に小声で言いました。「この質問、とても奇妙ですね。私たちは毎日仏陀を見ているのに。」
師兄は小さく答えました。「しっ、須菩提大師の答えを聞いていなさい。」
須菩提はしばらく深く考えた後、確信を持って答えました。「いいえ、世尊。私たちは外見だけでは、あなたの真の姿を認識することはできません。」
仏陀は微笑みながら頷き、この答えに満足しているようでした。そして更に尋ねました。「なぜでしょうか?」
須菩提は説明しました。「なぜなら、あなたは私たちに外見というものは真の姿ではないと教えてくださったからです。あなたが言われた身相というのは、実際には真実の身相ではありません。」
これを聞いて、弟子たちは皆困惑した表情になりました。
ある好奇心旺盛な弟子が我慢できずに尋ねました。「仏陀、それはどういう意味ですか?私たちは毎日あなたを見ていますが、これが真実の姿ではないのですか?」
仏陀は優しく、その弟子を見つめました。「良い質問ですね。説明しましょう。私たちが見ている外見というのは、ただの表面的なものにすぎません。誰もが本質的に持っている真の姿は、外見だけでは認識できないのです。」
四方を見渡し、全員が真剣に聞いていることを確認してから、続けました。「本に例えるなら、表紙を見ただけでは、その本の内容を理解したとは言えません。同じように、私の外見を見ただけでは、私の知恵と教えを理解したとは言えないのです。」
弟子たちはこれを聞いて、皆何かを考えているようでした。理解したという頷きもあれば、まだ深遠な道理を消化しようと努力している者もいました。
仏陀は優しく微笑みながら言いました。「大切なのは外見ではなく、内なる知恵と慈悲です。それが私の真の姿であり、あなた方一人一人が目指すべきものなのです。」
仏は須菩提に告げられた:「およそ相あるものは、みな虚妄である。もし諸相が相でないと見れば、すなわち如来を見る。」
佛陀は弟子たちが考え込んでいる表情を見て、さらに深い真理を明かす時が来たと感じました。穏やかに須菩提に言いました。「須菩提、重要な真理をお話ししましょう。」
須菩提と他の弟子たちは耳を澄まし、集中して聞いていました。
仏陀はゆっくりと続けました。「私たちが目で見ているすべての形は、実際には虚幻であり、真実ではありません。」
この言葉を聞いた弟子たちは驚いた表情を浮かべました。
一人の若い弟子が思わず小声で尋ねました。「え?私たちが見ているものは本当に存在しないのですか?」
隣に座っている長老が静かに説明しました。「焦らずに、仏陀の教えを続けて聞きなさい。」
仏陀は続けました。「しかし、もしあなたがこれらの表象を見透かし、それらが真実ではないことを理解できれば、あなたは真の私を見ることができるでしょう。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、深い思索に沈みました。眉をひそめてこの深遠な道理を理解しようとしている者もいました。
その時、一人の経験豊かな弟子が悟ったように言いました。「仏陀、あなたは私たちに表面的な現象に惑わされず、物事の本質を見ることを学ぶべきだと言っているのですか?」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「その通りです。私たちはしばしば目の前の現象に惑わされ、より深い真理を探求することを忘れがちです。」
若い弟子はまだ少し混乱していました。「でも、仏陀、私たちが見ているものが真実でないのなら、何が真実なのでしょうか?」
仏陀はその若者を優しく見つめました。「良い質問です。真実は私たちの内面に存在し、私たちの知恵と慈悲の中にあります。表象を超えて物事の本質を見ることができれば、あなたは真の私、つまり宇宙の真理を理解することができるでしょう。」
須菩提は仏に申し上げた:「世尊!このような言説章句を聞いて、真実の信を生じる衆生がいるでしょうか?」
佛陀が深遠な言葉を述べ終えた後、須菩提は周囲の弟子たちが考え込んでいる表情を見て、心の中に疑問が浮かびました。彼は敬意を表して仏陀に尋ねました。「尊敬する仏陀、質問があります。」
仏陀は穏やかに頷き、彼に続けるように促しました。
須菩提は深く息を吸い、こう言いました。「世尊、あなたが先ほどおっしゃったことは本当に深い意味を持っています。私は考えていますが、これらの言葉を聞いた人々が本当に信じ、理解できるのでしょうか?」
この質問を聞いた他の弟子たちは耳をそばだてました。何人かは小声で話し始めました。
一人の若い弟子が隣の仲間に小声で言いました。「この質問は良いですね。私自身も少し理解しづらいと感じています。」
その仲間は頷き、応じました。「そうですね、私たちのように仏陀に従って学んでいる人々以外は、この深遠な道理を理解できるのかどうかわかりません。」
一人の年長の弟子が考え込んで言いました。「確かに良い質問です。真理を理解するには、知恵と忍耐が必要ですから。」
仏陀は須菩提と他の弟子たちを慈しみ深く見つめ、微笑みを浮かべました。彼は弟子たちが真理を追求し、考えている姿を見て嬉しく思っていました。
仏は須菩提に告げられた:「そのような言葉を発してはならない。如来の滅後、後の五百年に、戒を守り福を修める者がいて、この経文に信心を生じ、これを真実と信じるならば、その人は一仏、二仏、三四五仏のもとで善根を植えたのではなく、すでに無量千万の仏のもとで諸々の善根を植えたのである。この経文を聞いて、わずか一念でも清らかな信心を生じる者は、須菩提よ!如来はすべてを知り、すべてを見ており、これらの衆生が得る無量の福徳を知っている。なぜか?これらの衆生には、もはや我相、人相、衆生相、寿者相がない。法相もなく、非法相もない。なぜか?これらの衆生が心に相を取れば、すなわち我、人、衆生、寿者に執着することになる。法相を取れば、すなわち我、人、衆生、寿者に執着することになる。なぜか?非法相を取れば、すなわち我、人、衆生、寿者に執着することになる。それゆえ、法を取るべきではなく、非法を取るべきでもない。この意味で、如来は常に言う:『汝ら比丘たちよ、私の説く法が筏の喩えのようであることを知れ。法さえも捨てるべきである。まして非法をや。』」
佛陀は須菩提の質問を聞いた後、慈しみの笑顔を浮かべました。彼は穏やかに言いました。「須菩提、そのように考えないでください。私が一つのことをお話ししましょう。」
すべての弟子たちは耳をそばだて、集中して聞いていました。
仏陀は続けて言いました。「私がこの世を去ってからずっと後、約500年ほど経った時、ある人々が現れます。彼らは私を直接見たことはありませんが、戒律を守り、善行を行うでしょう。彼らが私たちが今議論しているこれらの道理を聞いたとき、心から信じ、これが真理だと認識するでしょう。」
弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた表情を浮かべました。
仏陀はさらに説明しました。「こうした人々は、仏法を学び始めたばかりの人々ではありません。彼らは過去の無数の生において、何千もの仏に従い、多くの善良な種を蒔いてきました。たとえ一瞬の純粋な信念を抱いたとしても、彼らは想像を超える福徳を得るでしょう。」
一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「仏陀、なぜこれらの人々がそんなに大きな福徳を得ることができるのですか?」
仏陀は慈しみ深く彼を見つめ、説明しました。「なぜなら、これらの人々は『私』や『他者』、『生きとし生けるもの』、『生命』という概念への執着を手放しているからです。彼らはあらゆる形に執着せず、無形のものにも執着しません。」
弟子たちが少し理解したような表情を見せると、仏陀はさらに説明を続けました。「もし誰かが心の中でこれらの概念に執着しているなら、その人はまだ仏法を真に理解していません。有形のものに執着しても無形のものに執着しても、迷いに陥ることになります。」
仏陀は周囲を見渡し、全員が真剣に聞いていることを確認した後、言いました。「だから、私はいつも言っています。川を渡るときに使う木の筏のように、正しい法にさえ執着してはいけません。ましてや間違った法にはなおさらです。岸に到達したら、その筏を放り捨てて、持って行かないようにしてください。」
弟子たちはこの言葉を聞いて深く考え込んでしまいました。理解したと頷く者もいれば、この深遠な道理を消化しようと努力している者もいました。
一人の長老が感慨深げに言いました。「仏陀、あなたの教えは本当に深遠ですね。私たちはまだまだ学び続け、考え続ける必要があります。」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「その通りです。学び続け、考え続けることが重要です。しかし、覚えておいてください。重要なのは暗記することではなく、真に理解し、実践することです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来は無上正等正覚を得たのか?如来には説く法があるのか?」須菩提は言った:「私が仏の説かれた意味を理解するところでは、無上正等正覚と名付けられる定まった法はなく、また如来が説くことのできる定まった法もありません。なぜでしょうか?如来の説かれる法は、すべて取ることができず、説くことができず、法でもなく、非法でもありません。なぜならば?すべての賢聖は、無為の法によって差別があるのです。」
佛陀看著弟子們思考的表情,決定再提出一個深奧的問題。他轉向須菩提,溫和地問道:「須菩提,你怎麼看?我是不是真的獲得了最高的智慧呢?我是不是真的教導了什麼特定的法呢?」
弟子們聽到這個問題,都驚訝地睜大了眼睛。他們互相看了看,不知道該如何回答。
須菩提深思片刻,然後恭敬地回答:「佛陀,根據我對您教導的理解,其實並沒有一個固定不變的東西叫做『最高的智慧』。同樣,您也沒有教導過任何固定不變的法。」
須菩提繼續說:「為什麼這麼說呢?因為佛陀您所教導的法,是不能執著的,不能用言語完全表達的,既不是有形的法,也不是無形的非法。」
須菩提進一步解釋:「所有的聖人和智者,之所以有所不同,正是因為他們都明白了這個道理:真正的智慧是超越所有概念和形式的。」
佛陀聽完,露出了欣慰的笑容。他看著周圍的弟子們,說:「須菩提理解得很好。重要的不是執著於某種固定的知識或教導,而是要明白真理是靈活的,是超越語言和概念的。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?もし人が三千大千世界に七宝を満たして布施したならば、その人の得る福徳は多いだろうか?」須菩提は言った:「とても多いです、世尊よ!なぜでしょうか?その福徳はすなわち福徳の性質ではないからです。それゆえに如来は福徳が多いと説かれるのです。」「もしまた、ある人がこの経の中から受持し、わずか四句の偈でも他人のために説くならば、その福徳は前者に勝ります。なぜでしょうか?須菩提よ!すべての諸仏と諸仏の無上正等正覚の法は、すべてこの経から出るのです。須菩提よ!いわゆる仏法とは、すなわち仏法ではないのです。」
仏陀は優しく須菩提に尋ねました。「須菩提、私が一つ質問します。もし誰かが、この世界にあるすべての珍しい宝物を用いて善行を行ったとしたら、その人はとても多くの福徳を得ると思いますか?」
須菩提は考えた後、答えました。「世尊、それは本当に多くの福徳だと思います!」
しかし、すぐに付け加えました。「ただし、この福徳というのは実は固定したものではありません。固定していないからこそ、多いと仏陀がおっしゃるのだと思います。」
仏陀は微笑みながら頷き、続けました。「では、もし誰かがこの経典の教えを理解し、たとえわずか4句だけでも他者に説明できたら、宝物を布施した人よりもさらに多くの福徳を得るでしょう。」
これを聞いて、弟子たちは驚いた表情になりました。
一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「仏陀、なぜそうなるのですか?」
仏陀は優しく説明しました。「なぜなら、須菩提よ、すべての仏陀の知恵、最高の真理はすべてこの教えから来ているのです。ただし、私たちが『仏法』と言うとき、それは実は固定不変のものではないことを覚えておいてください。」
ある長老が感慨深げに言いました。「仏陀、つまり知恵を理解し伝えることは、単なる物質的な布施よりも価値があるということですね?」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「その通りです。ただし同時に、『仏法』というこの概念itself に執着してはいけません。真の知恵は柔軟で、すべての概念を超越しているのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?須陀洹はこのような念を起こすことができるだろうか:『私は須陀洹果を得た。』と?」須菩提は言った:「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?須陀洹とは流れに入ることを名付けますが、実際には入るところがなく、色・声・香・味・触・法に入らない、これを須陀洹と名付けるのです。」
佛陀は須菩提に向かって穏やかに尋ねました。「須菩提、あなたはどう思いますか?修行を始めたばかりの人が、『私は修行の第一の境地に達した!』と思うことはあるでしょうか?」
弟子たちはこの質問を聞いて耳をそばだてました。何人かは互いに顔を見合わせ、自分もそう思ったことがあるかどうかを考えているようでした。
須菩提は少し考えた後、確信を持って答えました。「いいえ、世尊。」
他の弟子たちが疑問の表情を浮かべるのを見て、須菩提はさらに説明しました。「なぜなら、『須陀洹』という言葉の意味は『流に入る』ということで、まるで川に入ったかのようですが、実際には何かに本当に『入った』わけではないからです。」
一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「それはどういう意味ですか?私たちは常に修行しているのではないですか?」
須菩提はその若者を慈しみ深く見つめ、続けて説明しました。「真の修行者は、私たちが普段見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりするものに執着しません。彼がこれらに執着しないからこそ、私たちは彼を『流に入った』と言うのです。」
仏陀は嬉しそうに頷き、「その通りです、須菩提。あなたはよく理解しています。真の修行は何かを得るためではなく、執着を手放すことを学ぶことです。」
一人の長老が感慨深げに言いました。「なるほど、修行の本当の意味は、世界への執着を手放すことであって、特定の境地を追い求めることではないのですね。」
仏陀はすべての弟子を慈しみ深く見つめ、「その通りです。重要なのは、開かれた謙虚な心を保つことです。自分の成果に執着せず、常に学び、成長し続けることが大切です。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?斯陀含はこのような念を起こすことができるだろうか:『私は斯陀含果を得た。』と?」須菩提は言った:「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?斯陀含とは一往来を名付けますが、実際には往来がない、これを斯陀含と名付けるのです。」
佛陀は須菩提に向かって穏やかに尋ねました。「須菩提、では、修行の第二の段階に達した人は、『私はもう一来というべき境地に達した!』と思うことはあると思いますか?」
須菩提は少し考えた後、確信を持って答えました。「いいえ、世尊。」
他の弟子たちが疑問の眼差しを向けるのを見て、須菩提はさらに説明しました。「なぜなら、『一来』という言葉の意味は、『もう一度人間界に来るだけ』ということですが、実際には『来る』ことも『去る』こともないからです。」
一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「それはどういう意味ですか?私たちは毎日来たり去ったりしているのではないですか?」
須菩提はその若者を慈しみ深く見つめ、丁寧に説明しました。「より高い境地では、『来る』ことも『去る』ことも、ただ私たちの考えにすぎないことがわかります。真の修行者は、これらの概念は実は存在しないことを理解しているのです。」
仏陀は嬉しそうに頷き、「その通りです、須菩提。真の修行とは、『来る』ことや『去る』こと、といった日常的な概念を超越することなのです。」
一人の長老が感慨深げに言いました。「なるほど、境地が高くなるほど、私たちの普段の認識を手放さなければならないのですね。」
仏陀はすべての弟子を慈しみ深く見つめ、「そうです。修行とは、執着を手放し、日常の概念を超えていく過程なのです。表面的な名称や境地に惑わされずに、その本質を理解することが大切なのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?阿那含はこのような念を起こすことができるだろうか:『私は阿那含果を得た。』と?」須菩提は言った:「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?阿那含とは不来を名付けますが、実際には来ることがない、それゆえに阿那含と名付けるのです。」
佛陀は再び須菩提に向き直り、穏やかに尋ねました。「須菩提、では、修行の第三の段階に達した人は、『私は阿那含の境地に達した!』と思うことがあるでしょうか?」
須菩提は深呼吸をしてから、確信を持って答えました。「いいえ、世尊。」
周囲の弟子たちが好奇心を抱いた目で見つめる中、須菩提は続けて説明しました。「なぜなら、『阿那含』という言葉の意味は『来ない』ということで、もうこの世界に戻ることはないということですが、実際には本当に『来る』ことはありません。」
一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「それはどういう意味ですか?私たちは毎日異なる場所に来ているのではないですか?」
須菩提はその若者を慈しみ深く見つめ、忍耐強く説明しました。「より高い境地では、『来る』や『来ない』というのは私たちの思考に過ぎないことがわかります。真の修行者は、これらの概念が実際には存在しないことを理解しています。」
仏陀は嬉しそうに頷き、「須菩提の言う通りです。真の修行は、私たちの日常的な概念、特に『来る』や『来ない』を超越することです。」
一人の長老が感慨深げに言いました。「なるほど、境地が高くなるほど、私たちの普段の認識や執着を手放さなければならないのですね。」
仏陀はすべての弟子を慈しみ深く見つめ、「その通りです。修行の過程は、執着を手放し、日常の概念を超えていく過程です。表面的な名称や境地に惑わされず、本質を理解することが重要です。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?阿羅漢はこのような念を起こすことができるだろうか:『私は阿羅漢道を得た。』と?」須菩提は言った:「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?実際には阿羅漢と名付ける法はないのです。世尊よ!もし阿羅漢がこのような念を起こしたならば:『私は阿羅漢道を得た。』と、すなわち我・人・衆生・寿者に執着することになります。世尊よ!仏は私が無諍三昧を得て、人々の中で最も第一であり、これが第一の離欲の阿羅漢だと説かれました。私はこのような念を起こしません:『私は離欲の阿羅漢である。』と。世尊よ!もし私がこのような念を起こしたならば:『私は阿羅漢道を得た。』と、世尊は須菩提が阿蘭那行を楽しむ者であると言われないでしょう!須菩提は実際には何も行わないが、須菩提は阿蘭那行を楽しむ者と名付けられるのです。」
佛陀は再び須菩提に向かって穏やかに尋ねました。「須菩提、では、最高の境地に達した修行者、すなわち阿羅漢は、『私は阿羅漢になった!』と思うことがあるでしょうか?」
須菩提は深く息を吸い、確信を持って答えました。「いいえ、世尊。」
周囲の弟子たちが疑問の眼差しを向けるのを見て、須菩提は説明を続けました。「なぜなら、実際には『阿羅漢』という固定されたものは存在しないからです。もし誰かが自分を阿羅漢だと思ったら、その人は『私』や『人』、『生きとし生けるもの』、『生命』といった概念に執着していることになります。」
須菩提はさらに言いました。「世尊、あなたは私が『無諍三昧』を得たと称賛し、最も欲望から離れた阿羅漢だと言いました。しかし、私は決して『私は欲望から離れた阿羅漢だ』とは思いません。もしそのような考えを持ったら、あなたは私を本当に独りで修行を楽しむ人とは言わないでしょう。」
一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「須菩提大師、それはどういう意味ですか?」
須菩提はその若者を慈しみ深く見つめ、説明しました。「つまり、真の修行は特定の名号や地位を追求することではなく、すべての執着、特に修行そのものへの執着を手放すことが重要なのです。」
仏陀は嬉しそうに頷き、「その通りです、須菩提。真の修行者は、あらゆる概念に執着しません。『修行』という概念自体にも執着しないのです。」
一人の長老が感慨深げに言いました。「なるほど、真の知恵はすべての概念や名相を超越することにあるのですね。」
仏陀はすべての弟子を慈しみ深く見つめ、「そうです。修行の最高の境地は完全に放下し、超越することです。どんな名号や成果にも執着せず、生命の本質を真に理解することが大切です。」
仏は須菩提に告げられた:「あなたはどう思うか?如来が昔、燃燈仏のもとにいたとき、法について何かを得たか?」「世尊よ!如来は燃燈仏のもとで、法について実際には何も得ませんでした。」
佛陀は須菩提に向かって穏やかに尋ねました。「須菩提、では、最高の境地に達した修行者、すなわち阿羅漢は、『私は阿羅漢になった!』と思うことがあるでしょうか?」
須菩提は深く息を吸い、確信を持って答えました。「いいえ、世尊。」
周囲の弟子たちが疑問の眼差しを向けるのを見て、須菩提は説明を続けました。「なぜなら、実際には『阿羅漢』という固定されたものは存在しないからです。もし誰かが自分を阿羅漢だと思ったら、その人は『私』や『人』、『生きとし生けるもの』、『生命』といった概念に執着していることになります。」
須菩提はさらに言いました。「世尊、あなたは私が『無諍三昧』を得たと称賛し、最も欲望から離れた阿羅漢だと言いました。しかし、私は決して『私は欲望から離れた阿羅漢だ』とは思いません。もしそのような考えを持ったら、あなたは私を本当に独りで修行を楽しむ人とは言わないでしょう。」
一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「須菩提大師、それはどういう意味ですか?」
須菩提はその若者を慈しみ深く見つめ、説明しました。「つまり、真の修行は特定の名号や地位を追求することではなく、すべての執着、特に修行そのものへの執着を手放すことが重要なのです。」
仏陀は嬉しそうに頷き、「その通りです、須菩提。真の修行者は、あらゆる概念に執着しません。『修行』という概念自体にも執着しないのです。」
一人の長老が感慨深げに言いました。「なるほど、真の知恵はすべての概念や名相を超越することにあるのですね。」
仏陀はすべての弟子を慈しみ深く見つめ、「そうです。修行の最高の境地は完全に放下し、超越することです。どんな名号や成果にも執着せず、生命の本質を真に理解することが大切です。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?菩薩は仏国土を荘厳するか?」「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?仏国土を荘厳するとは、すなわち荘厳ではありません。これを荘厳と名付けるのです。」
佛陀は須菩提に向かって尋ねました。「須菩提、あなたは菩薩たちが多くの心を使って仏国浄土を飾り、より美しくすると思いますか?」
須菩提はしばらく考えた後、確信を持って答えました。「いいえ、世尊。」
弟子たちは驚いて須菩提を見つめました。一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「なぜですか?仏国浄土は最も美しい場所であるべきではないですか?」
須菩提は微笑みながら説明しました。「真の荘厳は外見の装飾にはありません。外的な美に執着すると、逆に真の荘厳を失ってしまいます。真の荘厳は内なる清浄と知恵から来るのです。」
仏陀は嬉しそうに頷き、「その通りです、須菩提。真の美は外見ではなく、内面にあります。私たちの内面が真に清浄で知恵に満ちているとき、私たちが見るすべてが美しくなります。」
一人の長老が悟ったように言いました。「なるほど、外的な環境を飾ることに心を使うよりも、私たちの内なる心を浄化することが重要だということですね?」
仏陀は慈しみ深く微笑みました。「その通りです。私たちの心が純粋になれば、世界全体が美しく見えるのです。これが真の荘厳です。」
弟子たちはこの言葉を聞いて深く考え込みました。彼らは、真の美しさと荘厳は外的な装飾ではなく、内面的な境地にあることを理解し始めました。
仏陀は周囲を見渡し、穏やかに言いました。「覚えておいてください。真の修行は完璧な外の世界を創造するためではなく、私たちの内なる心を浄化するためのものです。私たちの心が純粋になると、私たちが見るすべてが美しくなるのです。」
「それゆえに須菩提よ、諸菩薩摩訶薩はこのように清浄な心を生じるべきであり、色に住して心を生じるべきではなく、声・香・味・触・法に住して心を生じるべきではありません。住するところなく心を生じるべきです。」
佛陀は須菩提に向かって言いました。「須菩提、重要な道理をお話ししましょう。」
佛陀はゆっくりと続けました。「偉大な修行者になりたいと思う人は、清らかな心を育てるべきです。彼らは、見える美しい景色、聞こえる心地よい音、香る芳しい香り、味わう美味しい食べ物、触れる心地よい感触、あるいは思い浮かべるさまざまな概念に心を執着させてはいけません。」
一人の若い弟子が困惑して尋ねました。「でも、仏陀、私たちの心はどこに留まるべきなのでしょうか?」
仏陀はその若者を慈しみ深く見つめ、答えました。「良い質問です。実際には、私たちの心はどこにも執着してはいけません。心は自由に存在し、何にも束縛されるべきではないのです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました!あなたは、私たちの心を開放し、自由に保つべきだと言っているのですね。外的なものに制限されるべきではないと。」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「その通りです、須菩提。心が何にも執着しないとき、真に自由で清らかになります。そのような心こそが、世界の真実を見抜き、最も深い知恵を体得することができるのです。」
仏陀は周囲を見渡し、穏やかに言いました。「覚えておいてください。真の修行は何かを追求したり執着したりすることではなく、手放すことを学ぶことです。心がどこにも留まらず、しかし生き生きとしているとき、あなたたちは真の知恵に近づくのです。」
「須菩提よ!たとえば、ある人の身体が須弥山王のようであったとしたら、あなたはどう思うか?この身体は大きいだろうか?」須菩提は言った:「とても大きいです、世尊よ!なぜでしょうか?仏は身体ではないと説かれ、これを大身と名付けるのです。」
佛陀は弟子たちの考え込んでいる表情に気づき、さらに生き生きとした比喩を使って説明を続けることにしました。彼は須菩提に向かって穏やかに尋ねました。「須菩提、面白い状況を想像してみましょう。ある人が須弥山のように高い身体を持っているとしたら、その身体は大きいと思いますか?」
須菩提は驚いた表情で目を大きく開き、「世尊、それは非常に巨大な身体です!須弥山は伝説の神山で、雲にそびえ立ち、世界のどの山よりも高いのですから。」と答えました。
しかし、須菩提はすぐに仏陀の質問には別の深い意味があることに気づきました。彼はしばらく考えた後、こう付け加えました。「しかし、世尊、あなたが以前教えてくださったように、真の偉大さは外見の大きさにはないのです。私たちが身体の概念に執着しないとき、それが本当の『大身』です。」
仏陀は嬉しそうに頷き、「その通りです、須菩提。あなたは重要な道理を理解しています。」
彼は周囲の弟子たちを見渡し、続けました。「皆さん、須弥山は確かに高いですが、結局のところそれは有形のものであり、生滅があります。真の偉大さは外見の体積ではなく、内面的な知恵と慈悲にあります。自分の身体に執着せず、外見に束縛されないとき、心は宇宙のように広がります。このように形を超えた境地こそが、私が言う『大身』なのです。」
一人の若い弟子が手を挙げて尋ねました。「仏陀、それは私たちが自分の身体を無視するべきだということですか?」
仏陀は慈しみ深く答えました。「良い質問です。無視するのではなく、過度に執着してはいけません。私たちは自分の身体を大切に扱うべきです。なぜなら、それは私たちの修行の道具だからです。しかし同時に、真の自己はこの肉体よりもはるかに広大で永遠であることを理解しなければなりません。」
須菩提は悟ったように言いました。「つまり、『大身』は物理的な大きさを指すのではなく、心の広さと超越を指しているのですね?」
仏陀は嬉しそうに言いました。「その通りです、須菩提。身体への執着を超えるとき、私たちの心は宇宙のように無限になります。これが真の『大身』なのです。」
「須菩提よ!ガンジス川にある砂の数のように、そのような砂と同じ数のガンジス川があるとしたら、あなたはどう思うか?これらのガンジス川の砂は多いだろうか?」須菩提は言った:「とても多いです、世尊よ!ガンジス川だけでも数え切れないほど多いのに、ましてその砂をや。」
佛陀は弟子たちが「大身」の概念を理解し始めたことに気づき、無量の概念をさらに説明するために別の比喩を用いることにしました。彼は須菩提に向かって微笑みながら尋ねました。「須菩提、もっと壮大な光景を想像してみましょう。あなたは恒河を知っていますか?」
須菩提は頷き、「はい、世尊。恒河は私たちインドで最も神聖な川の一つで、数千キロメートルにわたって流れています。」と答えました。
仏陀は続けました。「素晴らしい。では、恒河のすべての砂粒を想像してみてください。それは膨大な数です、そうでしょう?」
須菩提と他の弟子たちは同意して頷きました。
仏陀はさらに言いました。「今、恒河の砂粒と同じ数の恒河を想像してみてください。これらの恒河の砂粒の総数はどれほどになると思いますか?」
須菩提は目を大きく開き、驚いて言いました。「世尊、それは想像を絶するほどの巨大な数字です!恒河の数だけでも計り知れないのに、各河の砂粒を加えたら、その数字はとてつもなく大きいでしょう!」
仏陀は慈しみ深く笑い、「その通りです、須菩提。あなたの言う通りです。」
その時、一人の若い弟子が好奇心を抱いて尋ねました。「仏陀、なぜこのような巨大な数字を比喩に使うのですか?」
仏陀は周囲を見渡し、穏やかに説明しました。「この比喩は、宇宙の広大さと無限を理解する手助けをするためです。無数の砂粒のように、世界の現象や私たちの思考も無限に広がっています。」
彼は少し間を置いて続けました。「しかし、先ほど話した『大身』のように、真の知恵は数の多さにあるのではなく、私たちがその数をどう見るかにあります。私たちが数量の概念を超え、すべての現象の本質を見ることができたとき、私たちは真の知恵に到達するのです。」
須菩提は考え込みながら言いました。「わかりました、世尊。あなたは、世界の現象が無限に見えるとしても、私たちはこれらの表象に惑わされず、より深い真理を追求すべきだと言っているのですね?」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「その通りです、須菩提。まさにその通りです。恒河の砂粒や私たちの思考は無限に見えるかもしれませんが、真の知恵はこれらの表象を超えて、すべての現象の本質を見抜くことにあります。」
弟子たちは仏陀の説明を聞いて深く考え込みました。この恒河の砂に関する比喩は、彼らに宇宙の広大さと真理の本質について新たな理解をもたらしました。
「須菩提よ!私は今、真実の言葉をあなたに告げよう。もし善男子、善女人が、七宝でそれほどのガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界を満たして布施したとしても、福徳は多いだろうか?」須菩提は言った:「とても多いです、世尊よ!」
佛陀は弟子たちが「大身」の概念を徐々に理解しているのを見て、無量の概念をさらに説明するために別の例を用いることにしました。彼は須菩提に向かって微笑みながら言いました。「須菩提、もう一つの重要なことをお話ししましょう。」
須菩提はすぐに顔を上げて、仏陀に集中しました。
仏陀は続けて言いました。「仮に、善良な男性または女性が、驚くべき数の七宝を持っているとしましょう。」
「七宝?」と一人の若い弟子が興味津々で尋ねました。
仏陀は説明しました。「はい、七宝とは金、銀、琉璃、ガラス、真珠、赤珠、瑪瑙のことです。これらは私たちの世界で最も貴重な宝物と見なされています。」
弟子たちは驚き、仏陀は続けました。「さて、これらの七宝の数が、先ほど話した恒河の砂の数と同じくらい多いと想像してみてください。」
弟子たちは目を大きく開き、その巨大な数を想像しました。
仏陀は穏やかに尋ねました。「須菩提、もし誰かがこれほどの宝物をすべて布施したら、彼らは多くの福報を得ると思いますか?」
須菩提は少し考えた後、確信を持って答えました。「世尊、それは間違いなく非常に大きな福報を得るでしょう!これほどの宝物を布施することは、その善行の大きさを考えると想像を超えています。」
仏陀は微笑みながら頷きました。「その通りです、須菩提。このような布施は確かに大きな福報をもたらします。」
その時、一人の弟子が手を挙げて尋ねました。「仏陀、なぜこんなに誇張された数を比喩に使うのですか?」
仏陀は慈しみ深く答えました。「良い質問です。この例は、布施の力を理解する手助けをするためです。たとえこのような誇張された状況でも、布施は依然として大きな福報をもたらします。これは、善行の価値が世俗の基準では測れないことを示しています。」
須菩提は考え込みながら言いました。「わかりました、世尊。あなたは、たとえ想像を超えるような巨大な布施であっても、それが可能であり、相応の福報をもたらすことを教えているのですね。」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「その通りです、須菩提。しかし、これは私たちが真理を探求する道の一段階に過ぎません。これからさらに深い道理について探求していきましょう。」
仏は須菩提に告げられた:「もし善男子、善女人が、この経の中からわずか四句の偈でも受持し、他人のために説くならば、その福徳は前の福徳に勝るのである。」
佛陀は須菩提に向かって微笑みながら言いました。「須菩提、今、もっと驚くべきことをお話ししましょう。」
佛陀は続けました。「仮に、善良な男性または女性が、たくさんの宝物を持っていないとしましょう。しかし、もし彼らがこの経典の中の短い四句の偈を理解し、記憶し、それを他の人に教えることができたら、どうなるでしょうか?」
「皆さん、どう思いますか?」と佛陀は穏やかに尋ねました。「この人が得る福報は、先ほどの大量の七宝を布施した人よりも大きいでしょう。」
弟子たちは驚き、互いに耳打ちしました。一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「でも、世尊、どうしてそんな短い言葉があんなに多くの宝物よりも価値があるのでしょうか?」
佛陀は慈しみ深く笑い、「良い質問です。物質的な布施は確かに重要ですが、知恵を広めることの価値はさらに貴重です。物質的な布施は一時的に人のニーズを満たすことができますが、知恵の伝播は人の人生を永続的に変えることができるからです。」
須菩提は考え込みながら言いました。「つまり、他の人に知恵を与えることは、物質を与えることよりも価値があるということですね?」
佛陀は頷きました。「その通りです、須菩提。知恵の種が一度植えられれば、それは永遠に生き続け、無数の生命に影響を与えます。だからこそ、たとえ短い四句の偈でも、真理のエッセンスを含んでいれば、無限の福報をもたらすことができるのです。」
別の弟子が手を挙げて尋ねました。「では、世尊、私たちはどうやってこの知恵を理解し、広めればよいのでしょうか?」
佛陀は慈しみ深く答えました。「まず、経典の意味を心で理解することが大切です。そして、慈悲の心を持って学んだ知恵を他の人と共有してください。知恵を広めることは、単に言葉を繰り返すことではなく、心で体験し、他の人にその真理を理解させる手助けをすることです。」
弟子たちは仏陀の教えを聞いて深く考え込みました。彼らは、真の価値は外的な富ではなく、内面的な知恵と他者への助けにあることを認識し始めました。
仏陀は最後に言いました。「覚えておいてください、誰もが知恵の伝播者になる能力を持っています。物質的な富がどれほどあっても、学び、知恵を共有する意欲があれば、この世界に無限の福報をもたらすことができるのです。」
弟子たちはこの言葉を聞いて心に力と希望を感じました。彼らは、自分たちが学び、知恵を共有することによって世界を変える機会があることを理解しました。
「さらに、須菩提よ!この経を説くとき、わずか四句の偈であっても、この場所は、一切世間の天、人、阿修羅がすべて供養すべきであり、まるで仏塔のようである。まして完全に受持し読誦できる人がいるならば、なおさらである。須菩提よ!その人が最上第一の希有なる法を成就していることを知るべきである。もしこの経典がある場所には、すなわち仏がおられ、尊重すべき弟子がいるのである。」
佛陀は須菩提に向かって優しく言いました。「須菩提、今、さらに重要なことをお話しします。」
彼は続けて言いました。「どこであっても、誰かがこの経典を唱えたり解説したりする場合、たとえそれが短い四句の偈であっても、その場所は非常に神聖なものになります。」
「本当にですか、世尊?」と一人の若い弟子が驚いて尋ねました。仏陀は頷きながら微笑みました。「はい。そういう場所は、世の天神や人々、さらには阿修羅たちからも尊敬され、供養されます。それはまるで仏塔を扱うようにです。」
弟子たちは驚き、仏陀は続けました。「もし誰かがこの経典を完全に理解し、全てを暗記しているなら、それはさらに貴重なことです。」
須菩提は考え込みながら言いました。「世尊、あなたは、経典を唱えたり理解したりする人が特別な地位を得るということですか?」
仏陀は慈しみ深く答えました。「その通りです、須菩提。そうした人は最高で最も尊い法を成就することができます。」
その時、一人の弟子が好奇心を抱いて尋ねました。「仏陀、なぜこの経典がそんなに重要なのですか?」
仏陀は周囲を見渡し、穏やかに説明しました。「この経典は最も深い知恵を含んでいます。それは人々が世界の真実を理解し、苦しみから解放される手助けをします。実際、この経典があるところには必ず仏法が存在し、まるで仏陀が直接そこにいるか、尊敬される弟子がいるかのようです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは、この経典が単なる文字ではなく、仏陀の知恵と慈悲を含んでいると言っているのですね?」
仏陀は頷きました。「その通りです、須菩提。この経典は仏法のエッセンスのようなもので、人々を解放の道へと導くことができます。」
別の弟子が尋ねました。「では、世尊、私たちはこの経典にどのように接すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈しみ深く答えました。「最も敬意を持って接するべきです。それを学び、理解し、実践し、他の人とその知恵を共有してください。覚えておいてください、あなたたちがそうするたびに、仏法を延続させているのです。まるで仏陀が直接教えているかのように。」
弟子たちは仏陀の教えを聞いて深く考え込みました。彼らは、この貴重な知恵を学ぶ機会があるだけでなく、それを広める責任も感じました。
仏陀は最後に言いました。「覚えておいてください、真の修行は個人的なものではありません。経典の知恵を理解し、共有することで、全世界に光をもたらすのです。」
弟子たちはこの言葉を聞いて神聖な使命感を感じました。彼らは、学びと伝播を通じて、世界に知恵と慈悲をもたらす重要な道を理解しました。
その時、須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!この経をどのように名付けるべきでしょうか?私たちはどのように奉持すべきでしょうか?」仏は須菩提に告げられた:「この経は『金剛般若波羅蜜』と名付ける。この名前で、あなたは奉持すべきである。なぜならば、須菩提よ!仏が説く般若波羅蜜は、すなわち般若波羅蜜ではない。須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には説く法があるだろうか?」須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!如来には説くところはありません。」
この時、須菩提は突然重要な質問を思いつきました。彼は敬意を表して仏陀に尋ねました。「世尊、この経典をどのように呼べばよいのでしょうか?また、どのように敬意を持って奉持すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈しみ深く須菩提を見つめ、微笑んで答えました。「この経典は『金剛般若波羅蜜』と呼ばれます。あなたたちはこの名前で呼び、奉持すべきです。」
「金剛般若波羅蜜」という名前は弟子たちの好奇心を引きました。一人の若い弟子が我慢できずに尋ねました。「世尊、この名前は何を意味するのですか?」
仏陀は説明しました。「『金剛』は非常に堅固なことを象徴し、『般若』は智慧を意味し、『波羅蜜』は彼岸に到達することを指します。この名前は、この経典がすべての煩悩を断ち、私たちを智慧の彼岸へと導く堅固な智慧を含んでいることを示しています。」
須菩提は考え込みましたが、まだ少し疑問を感じていました。彼は再度尋ねました。「世尊、しかしあなたは先ほど、仏が言う般若波羅蜜は実際には般若波羅蜜ではないと言いました。それはどういう意味ですか?」
仏陀は微笑んで言いました。「良い質問です、須菩提。これがこの経典の精髄です。」彼は周囲を見渡し、すべての弟子が真剣に聞いていることを確認してから続けました。「真の智慧は言葉や概念を超えています。私たちがそれを言葉で表現すると、それはもはや言葉では表せない真実の智慧ではなくなります。」
弟子たちは困惑した表情を浮かべました。仏陀はその様子を見て、彼らの思考を促すために質問を投げかけました。
「須菩提、私から一つ質問します。あなたは如来が何かを語ると思いますか?」と仏陀は穏やかに尋ねました。
須菩提はしばらく考えた後、確信を持って答えました。「世尊、私の理解では、如来は実際には何も語りません。」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「素晴らしい、須菩提。あなたは重要な真理を理解しています。」
他の弟子たちがまだ疑問を抱いているのを見て、仏陀はさらに説明しました。「真理は言葉を超えています。私が言うすべては、真理を指し示す指であって、真理そのものではありません。手で月を指すように、指は月ではありませんが、月を見る手助けをすることができます。」
一人の弟子が急に理解しました。「ああ、わかりました!つまり、私たちが言葉や概念に執着すると、逆に真の智慧を見逃す可能性があるのですね?」
仏陀は微笑んで言いました。「その通りです。だから私は、所謂の般若波羅蜜は実際の般若波羅蜜ではないと言ったのです。真の智慧は、あなたたちが体験し、実践するものであり、単に文字通りの意味を理解するだけではありません。」
須菩提は深くお辞儀をし、「教えをありがとうございます、世尊。私たちは、経文の背後にある真理を体験し、表面的な文字に執着しないことを心に留めます。」
仏陀はすべての弟子を慈しみ深く見つめ、「覚えておいてください。この経典はあなたたちを導くための道具です。重要なのは、すべての文字を記憶することではなく、その中の智慧を理解し、日常生活で実践することです。そうすれば、あなたたちは本当にこの経典を奉持することができるのです。」
弟子たちは仏陀の説明を聞いて深く考え込みました。彼らは修行の道が知識を学ぶことだけでなく、言葉や概念を超えて直接真理を体験することにあることを理解しました。この気づきは、彼らがこれから学ぶ経文に対して期待と敬意を抱かせました。
「須菩提よ!あなたはどう思うか?三千大千世界にある微塵は多いだろうか?」須菩提は言った:「とても多いです、世尊よ!」「須菩提よ!諸々の微塵について、如来は微塵ではないと説き、これを微塵と名付ける。如来は世界について説くが、世界ではなく、これを世界と名付ける。」「須菩提よ!あなたはどう思うか?三十二相で如来を見ることができるだろうか?」「いいえ、世尊よ!なぜでしょうか?如来が説く三十二相は、すなわち相ではなく、これを三十二相と名付けるのです。」
佛陀はさらに彼らに考えさせました。彼は穏やかに尋ねました。「須菩提よ、あなたは先ほど三千大千世界の微塵の数が非常に多いと言いました。それでは、これらの微塵は本当に存在すると考えますか?」
須菩提はしばらく考え、慎重に答えました。「世尊、あなたの以前の教えに従えば、これらの微塵は実在ではないかもしれません。」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「よく言った、須菩提。実際に如来が言う微塵は、真の微塵ではなく、これは私たちが名付けたものに過ぎません。同様に、如来が言う世界も、真の世界ではなく、これも一つの名称です。」
弟子たちは困惑した表情を浮かべました。若い弟子の一人がたまらず尋ねました。「世尊、もし微塵や世界が真実でないのなら、私たちの目の前に見えるすべては何なのでしょうか?」
仏陀は優しく笑いました。「良い質問です。別の視点から考えてみましょう。須菩提、あなたは如来の三十二相を観察することで、如来を本当に知ることができると思いますか?」
須菩提はしばらく考え、確固たる答えを返しました。「いいえ、世尊。なぜなら、あなたが教えたように、如来が言う三十二相は、実際には真の相ではなく、これは私たちが名付けたものに過ぎません。」
仏陀は満足そうに言いました。「素晴らしいことを言った、須菩提。あなたは重要な真理を理解しました。」
他の弟子たちがまだ疑問の表情をしているのを見て、仏陀はさらに説明しました。「あなたたちは理解しなければなりません。私たちが見ている、認識しているすべては、ただの表象であり、私たちが物事に貼り付けたラベルです。真の実相は、これらの名相を超えたものです。」
一人の弟子がはっと気づきました。「ああ、わかりました!私たちが見る花は、実際には私たちが名付けたものであり、花の本質ではないのですね?」
仏陀は微笑んで言いました。「その通りです。微塵、世界、また如来の三十二相は、すべて私たちが現象を説明するために用いる概念に過ぎません。真の智慧は、これらの概念を見透かし、実相に至ることにあります。」
須菩提は深くお辞儀をしました。「教えをありがとうございます、世尊。これにより、私たちは表面的な現象に執着すべきではなく、物事の本質を見極める努力をすべきだと理解しました。」
仏陀はすべての弟子を優しく見つめました。「覚えておいてください。真の修行は、特定の相や名称を追求したり執着したりすることではなく、これらの表象を超え、万物の真実の本性を体悟することです。あなたたちがこれを達成できるとき、真理に近づくことができます。」
弟子たちは仏陀の説明を聞いた後、深く考え込んでしまいました。彼らは、世界が以前想像していたよりも複雑で深遠であることに気づきました。この気づきは、彼らに修行に対する新たな理解をもたらし、真理を探求し続ける情熱を刺激しました。
仏陀は最後に言いました。「表象に惑わされず、名相に執着しないでください。真の智慧は、これらを見透かし、実相に至ることにあります。これが般若波羅蜜多の本質です。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、新たな洞察と啓発に満ちた気持ちになりました。彼らは、修行の道は困難であるものの、正しい心構えと智慧を持ち続ければ、徐々に真理の核心に近づけることを理解しました。
「須菩提よ!もし善男子、善女人が、ガンジス川の砂ほどの身命を布施したとしても、もしまた、ある人がこの経の中から、わずか四句の偈でも受持し、他人のために説くならば、その福徳はとても多い。」
佛陀は、経文の重要性をより具体的な例で説明しました。彼は穏やかに言いました。「須菩提、非常に寛大な情景を想像してみましょう。」仏陀は続けて言いました。「善良な男性または女性が、無数の命を犠牲にして善行を行うと仮定しましょう。ここでの『無数』は、ガンジス川の砂の数で比喩することができます。」
弟子たちは驚きの表情を交わし、そんなに大きな犠牲を想像することができませんでした。仏陀は続けました。「このような布施は間違いなく大きな福報をもたらします。しかし、今度は別の状況を比較してみましょう。」
「もし、別の人が、そんなに大きな犠牲を払っていなくても、この経典の短い四句の偈頌を理解し、記憶し、他者に真摯に説明できるとしたら、どうでしょうか?」
若い弟子の一人がたまらず尋ねました。「世尊、その人の福報はもっと大きいのですか?」
仏陀は慈しみを込めて頷きました。「その通りです。その人が得る福報は、前者をはるかに超えます。」
弟子たちは驚き、耳打ちし合い、信じられない様子でした。
須菩提は考え込みながら言いました。「世尊、それは少し信じられないようです。なぜ短い数句の経文がそんなに大きな福報をもたらすのでしょうか?」
仏陀は微笑んで説明しました。「須菩提、それは経文に最も深い智慧が含まれているからです。人がこの智慧を理解し、広めるとき、彼は自分自身を助けるだけでなく、無数の生きとし生けるものに智慧を開く手助けをするのです。このような利益は物質的に測ることはできません。」
一人の弟子が尋ねました。「では、世尊、私たちは物質的な布施よりも、経文の学習と伝播にもっと集中すべきなのでしょうか?」
仏陀は慈しみを込めて答えました。「両方とも重要です。物質的な布施は、衆生の即時の苦しみを和らげることができ、智慧の伝播は、衆生を根本的に解放する手助けをします。理想的には、両方を兼ね備えることです。」
彼は続けて言いました。「しかし、経文を伝えることは、単に文字を暗記することではありません。もっと重要なのは、その深い意味を理解し、その理解を慈悲の心で他者に伝えることです。」
須菩提ははっと気づきました。「わかりました、世尊。あなたが言うように、智慧を伝えることの価値が非常に大きいのは、それがより多くの人々を苦しみから解放する手助けになるからですね?」
仏陀は満足そうに言いました。「その通りです、須菩提。あなたが他者にこの深い智慧を理解させる手助けをするとき、あなたはまるで一つの灯をともすようなものであり、その灯は無数の他の灯を照らすことができるのです。これが、経文を広める功徳が非常に優れている理由です。」
弟子たちは仏陀の説明を聞いた後、経文の力に深く感銘を受けました。彼らは、智慧を学び、広めることが個人の修行だけでなく、無数の生きとし生けるものに影響を与える崇高な事業であることに気づきました。
仏陀は最後に言いました。「だから、私の愛する弟子たちよ、智慧を学び、共有する機会を軽視しないでください。たとえ短い四句の偈頌であっても、あなたたちが本当に理解し、他者と共有できれば、それは世界を変える力になるかもしれません。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、神聖な使命感が湧き上がりました。彼らは、誰もが智慧を学び、広めることで世界に深遠な影響を与える機会があることを理解しました。この気づきは、彼らに学び続ける情熱と期待を抱かせました。
その時、須菩提はこの経を聞いて、深くその意味を理解し、涙を流して悲しみ、仏に申し上げた:「希有なることです、世尊よ!仏がこのように甚深な経典を説かれました。私は昔から得ていた慧眼でも、かつてこのような経を聞いたことがありません。世尊よ!もしまた、ある人がこの経を聞いて、清浄な信心を生じるならば、すなわち実相を生じるのです。この人が第一の希有なる功徳を成就していることを知るべきです。世尊よ!この実相とは、すなわち相ではありません。それゆえに如来は実相と名付けるのです。世尊よ!私は今、このような経典を聞くことができ、信解し受持することは難しくありません。もし未来世、後の五百年に、衆生がこの経を聞いて、信解し受持するならば、その人は第一に希有な存在です。なぜでしょうか?この人には我相、人相、衆生相、寿者相がないからです。なぜならば?我相はすなわち相ではなく、人相、衆生相、寿者相もすなわち相ではないからです。なぜでしょうか?一切の諸相を離れれば、すなわち諸仏と名付けられるのです。」
佛陀がこの深遠な教えを終えた後、講堂全体は静寂に包まれました。突然、一声のすすり泣きが沈黙を破りました。すべての人の視線はその声の発信源、須菩提に向かいました。
須菩提は涙を流し、感情が高ぶっていました。彼は震えながら立ち上がり、仏陀に深くお辞儀をし、声を詰まらせて言いました:
「世尊、今日お話しされた経文は本当に深遠で貴重です!私は自分に少しの智慧があると思っていましたが、こんなに素晴らしい教えを聞いたことはありません。」
須菩提は深く息を吸い、続けて言いました。「世尊、もし誰かがこの経典を聞き、清らかな心で信じることができれば、彼らは必ず物事の真実の本性を理解するでしょう。そのような人は本当に貴重で、彼らの功徳は計り知れません!」
彼は一瞬言葉を止め、思考を整理するように見えました。そして続けました。「しかし、世尊、私は突然気づきました。この『実相』というものは、実際には固定された『相』ではないのです。固定された形に執着しないからこそ、それが真の実相なのです。」仏陀は嬉しそうに頷き、須菩提に続けるよう促しました。
須菩提は続けました。「世尊、私はこの経典を聞けたことが幸運で、私にとってそれを信じ理解することは難しくありません。しかし、もし五百年後の人々が、仏法が衰退している時代に、この経典を聞き、信じ、理解することができれば、それは本当に稀有なことです!」
若い弟子の一人が我慢できずに尋ねました。「須菩提尊者、なぜその時代の人々がより貴重だと言うのですか?」須菩提はその弟子に向き直り、忍耐強く説明しました。「それは、この経典を真に理解できる人は、『我』、『人』、『衆生』、『寿者』といった概念への執着を超えているからです。彼らは、これらの概念が固定不変の実相ではないことを理解しています。」
彼は周囲を見渡し、他の弟子たちがまだ少し困惑している様子を見て、さらに説明を続けました。「あなたたちが知っておくべきことは、誰かがこれらの概念の束縛から解放されるとき、その人は仏の境地に近づくのです。だからこそ、私はその時代にこの経典を理解できる人々が非常に貴重だと言ったのです。」
仏陀は須菩提を見つめ、称賛の微笑を浮かべました。彼は穏やかに言いました。「よく言った、須菩提。あなたはこの経典のエッセンスを深く理解しています。」
他の弟子たちに向かって、仏陀は続けました。「須菩提の言葉は、あなたたちが深く考えるに値します。覚えておいてください、真の智慧はどの概念にも執着することではなく、これらの概念の本質を見透かすことにあります。」
弟子たちはこの対話を聞いた後、深く考え込んでしまいました。彼らは修行の道が自分たちが想像していたよりも深く、神秘的であることに気づきました。この気づきは彼らに畏敬の念を抱かせ、探求を続ける情熱を刺激しました。
仏陀は最後に言いました。「須菩提の理解をあなたたちの啓発として受け取ってください。現在でも未来でも、これらの教えを真に理解し実践できる人々は、この世で最も貴重な宝です。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、神聖な使命感が湧き上がりました。彼らは、修行が個人の解放のためだけでなく、未来の年月にわたってこの貴重な智慧を伝承し、より多くの衆生に利益をもたらすためであることを理解しました。
仏は須菩提に告げられた:「そのとおりである、そのとおりである!もしまた、ある人がこの経を聞いて、驚かず、怖れず、恐れないならば、その人はとても希有な存在であることを知るべきである。なぜか?須菩提よ!如来が説く第一波羅蜜は、第一波羅蜜ではなく、これを第一波羅蜜と名付ける。須菩提よ!忍辱波羅蜜について、如来は忍辱波羅蜜ではないと説く。なぜか?須菩提よ!私が昔、歌利王に身体を切り刻まれたとき、私にはその時、我相も、人相も、衆生相も、寿者相もなかった。なぜか?私が過去に体を切り刻まれたとき、もし我相、人相、衆生相、寿者相があったならば、怒りと恨みが生じたはずである。須菩提よ!また、過去五百世に忍辱仙人であったことを思い出すが、そのすべての世において、我相も、人相も、衆生相も、寿者相もなかった。それゆえに須菩提よ!菩薩はすべての相を離れ、無上正等正覚の心を発すべきであり、色に住して心を生じるべきではなく、声・香・味・触・法に住して心を生じるべきではない。住するところのない心を生じるべきである。もし心に住するところがあれば、すなわち住していないのである。それゆえに仏は説く:『菩薩の心は色に住して布施すべきではない。』」
佛陀は、この深奥な道理をさらに説明しました。彼は優しく言いました。「須菩提よ、あなたの言うとおりです。そして、私があなたに告げたいのは、もし将来、誰かがこの経典を聞いても驚慌せず、恐れず、怖れないなら、その人は本当に稀有で尊い存在だということです。」
若い弟子の一人が我慢できずに尋ねました。「世尊、なぜこの経典を聞くと人々が驚慌したり怖れたりするのでしょうか?」
仏陀は優しく微笑みながら、説明しました。「それは、この経典が説く道理が非常に深遠で、多くの人の既存の概念を覆すからです。」
彼は一瞬言葉を止め、続けました。「例えば、私たちが言う『第一波羅蜜』というのは、実際には真の『第一』ではありません。これは私たちが名付けただけのことなのです。」
弟子たちが困惑した表情になるのを見て、仏陀は自身の経験を例に挙げて説明することにしました。
「昔の話をしましょう。私は以前、ゴーリという残虐な王に出会ったことがあります。彼は私の身体を断片に切り裂いたのです。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、息を呑み、恐怖の表情で仏陀を見つめました。
仏陀は静かに続けました。「しかし、あんなに苦しい時でも、私は自分自身、その王、あるいはどの衆生に対しても、憎しみや執着の念を抱くことはありませんでした。」
須菩提は考え込むように言いました。「世尊、つまり、『我』、『人』、『衆生』、『寿者』といった概念に執着しなかったからこそ、あのような平静と慈悲を保つことができたのですね?」
仏陀は賞賛するように頷きました。「その通りです、須菩提。もしそれらの概念に執着していたら、きっと憎しみと怨みを抱いたことでしょう。」
彼は周囲を見渡し、続けて言いました。「実は、過去の五百世で私は忍辱仙人として修行してきました。その長い歳月の間、私は常に無我、無人、無衆生、無寿者の心を保ち続けたのです。」
一人の弟子が尋ねました。「世尊、私たちはどのように修行すれば、そのような境地に達することができるのでしょうか?」
仏陀は優しく答えました。「修行者としてあなたたちは、すべての執着と概念から解放されるよう努力すべきです。最高の智慧を求めるとき、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、思想のいずれにも執着してはいけません。あなたたちの心は澄んだ湖水のようであるべきで、何にも執着してはいけません。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。つまり、真の修行とは、私たちの心を無所住にすることなのですね?」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。もし心に住するものがあれば、それは真の無住ではありません。だからこそ、私は常に、布施をする時は心を何にも執着させてはいけないと言うのです。」
弟子たちは仏陀の教えを聞いて、深く考え込みました。彼らは、真の修行とは善行を行うだけではなく、無執着無住の心を養うことが最も重要であることに気づきました。
仏陀は最後に言いました。「覚えておいてください。真の智慧と慈悲は、すべての概念を超越することから生まれます。あなたたちがそこに到達できるなら、この経典の深い意味を本当に理解でき、どんな困難に直面しても内なる平静と慈悲を保つことができるでしょう。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、心の中に新しい理解が芽生えるのを感じました。彼らは、修行の道は困難であっても、諦めずに正しい心構えを保ち続ければ、仏陀が描いた超越の境地に徐々に近づけることを理解しました。
「須菩提よ!菩薩は一切衆生を利益するために、このように布施すべきである。如来は説く:『一切の諸相は、すなわち相ではない。』また説く:『一切の衆生は、すなわち衆生ではない。』」
仏陀は優しく言いました。「菩薩の行為は、すべての衆生の利益のためであるべきです。しかし、布施をする際には特に注意すべき点があります。」
「菩薩は、ある特別な心構えで布施を行うべきなのです。」
若い弟子の一人が我慢できずに尋ねました。「世尊、その特別な心構えとは何でしょうか?」
仏陀は優しく微笑みながら、説明しました。「その心構えとは、私たちが見たり聞いたり感じたりするすべての現象が、実は真実で不変のものではないことを理解することです。」
弟子たちが困惑した表情になるのを見て、仏陀は比喩を使って説明することにしました。
「美しい花を見たとき、あなたたちは『これは花だ』と言います。しかし、その花は永遠不変のものでしょうか?」弟子たちは首を振りました。
仏陀は頷きました。「その通りです。花は咲き、そして散ります。それは絶え間なく変化しているのです。だからこそ、『一切諸相、即是非相』と言うのです。私たちが見る現象のすべては、固定不変のものではないのです。」
須菩提は考え込むように言いました。「世尊、つまり、菩薩は布施の行為そのものにも、布施の対象にも執着してはいけないということですね?」
仏陀は満足そうに頷きました。「よく言った、須菩提。まさにその通りです。」
彼は続けて言いました。「それだけではありません。私たちはさらに、『一切衆生、則非衆生』ということを理解しなければなりません。」
弟子たちが疑問の表情になるのを見て、仏陀は説明しました。「この言葉の意味は、私たちが通常『衆生』と考えているものも、実は固定不変のものではないということです。すべての生命は絶え間なく変化しており、永遠不変の『我』というものはないのです。」
一人の弟子が尋ねました。「世尊、もし全てが変化しているのなら、なぜ私たちは善行を積まなければならないのでしょうか?」
仏陀は優しく答えました。「よい質問です。全てが変化しているからこそ、私たちの善行が影響を及ぼすのです。私たちは固定された報酬を得るためではなく、宇宙の中で前向きな変化を促すために善行を積むのです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。つまり、菩薩は自身の行為にも、助けられる対象にも執着せず、ただ宇宙の調和を促進するために行動すべきだと言うのですね?」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。これが真の智慧と慈悲なのです。」
弟子たちは仏陀の教えを聞いて、深く考え込みました。彼らは、善行を積むだけではなく、すべてを超越した心構えを持つことが真の修行であることに気づきました。
仏陀は最後に言いました。「覚えておいてください。あなたたちがこのような心構えで世界と善行に取り組めるようになれば、真の菩薩道に近づくことができるのです。あなたたちの行為は固定観念に縛られることなく、すべての衆生に真に役立つものとなるでしょう。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、心の中に新しい理解が芽生えるのを感じました。彼らは、修行の道は深奥であっても、正しい心構えを保ち続ければ、誰もが真の菩薩となり、世界に前向きな変化をもたらすことができることを理解しました。
「須菩提よ!如来は真実を語る者、実を語る者、如くに語る者、欺かない者、異ならざる者である。」
佛陀は穏やかに言いました。「須菩提、今、非常に重要なことをお伝えします。」
仏陀はゆっくりと続けました。「あなたたちは知っておくべきです。如来、つまり私が言うことは、すべて信頼に足るものです。」
「まず第一に、如来は真語者です。」仏陀は言いました。「これは、私が言うすべての言葉が真実であり、虚偽が一切ないことを意味します。」若い弟子の一人が我慢できずに尋ねました。「世尊、これは私たちが普段言う真実と何が違うのですか?」仏陀は慈しみを込めて微笑み、説明しました。「良い質問です。如来の真語は、単に嘘をつかないことだけでなく、宇宙の真実を語ることでもあります。」
彼は続けて言いました。「次に、如来は実語者です。これは、私が言うことが真実であるだけでなく、実行可能であり、空虚な理論ではないことを意味します。」須菩提は考え込んで言いました。「あなたが先ほど教えてくださった修行方法は、私たちが実際に実践できるものですね?」仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。」
仏陀は続けました。「第三に、如来は如語者です。これは、私が言う言葉が事物の本質と完全に一致し、何の偏差もないことを意味します。」
「第四に、如来は不誑語者です。これは、私は誰に対しても、たとえ善意からであっても、決して欺かないことを意味します。」
「最後に、如来は不異語者です。これは、私の言葉が常に一貫しており、前後矛盾しないことを意味します。」
一人の弟子が尋ねました。「世尊、なぜあなたはこれらを特に強調されるのですか?」
仏陀は慈しみを込めて答えました。「それは、真理を理解することが非常に難しいからです。この過程において、あなたたちは絶対的に信頼できる指針を必要とします。私が教えるとき、すべての言葉は深く考えられ、あなたたちが覚醒に至る手助けをするためのものです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは私たちに、あなたの教えを完全に信頼できることを伝えています。なぜなら、あなたのすべての言葉は真実であり、有用であり、正確であり、誠実であり、一貫しているからです。」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。修行の道で混乱や疑念に直面したときは、このことを思い出してください。」
弟子たちは仏陀の説明を聞いて、心に畏敬と信頼が満ちました。彼らは、仏陀の教えが深遠であるだけでなく、絶対に信頼できるものであることに気づきました。
仏陀は最後に言いました。「覚えておいてください。真理は深遠に見えることがあり、時には理解しにくいこともあります。しかし、あなたたちが信じて努力して実践すれば、必ず明るい日が訪れるでしょう。私が言うすべての言葉は、その瞬間に向かうための道しるべです。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、新たな決意が心に芽生えるのを感じました。彼らは、修行の道が困難で曲がりくねっているかもしれないが、仏陀のような信頼できる導師がいることで、最終的に覚醒への道を見つけることができると理解しました。
「須菩提よ!如来の得た法は、この法に実も虚もない。須菩提よ!もし菩薩の心が法に住して布施を行えば、暗闇に入った人のように、何も見ることができない。もし菩薩の心が法に住せずに布施を行えば、目のある人が日光に照らされて、様々な色を見るようなものである。須菩提よ!未来の世に、もし善男子、善女人がこの経を受持し読誦できるならば、如来は仏の智慧をもって、この人を悉く知り、この人を悉く見て、皆が無量無辺の功徳を成就することを知るのである。」
佛陀は穏やかに言いました。「須菩提、今、如来が得た法の重要な真実をお伝えします。」
須菩提と他の弟子たちは耳を傾け、集中して聞いていました。
仏陀は続けました。「如来が得た法は、実在でもなく、虚無でもありません。」弟子たちが困惑した表情を見せると、仏陀は比喩を使って説明することにしました。「二つの異なる状況を想像してみましょう。」仏陀は言いました。「まず、特定の法に執着して布施を行う菩薩を想像してください。」
「世尊、」若い弟子が尋ねました。「その場合はどうなるのでしょうか?」
仏陀は答えました。「それは、暗闇の中を歩く人のようで、何も見えないのです。」
弟子たちは理解した様子で頷き、仏陀は続けました。「次に、心が何の法にも執着せずに布施を行う菩薩を想像してください。」
「その場合はどうなるのですか、世尊?」須菩提が興味を持って尋ねました。
仏陀は微笑んで言いました。「それは、視力の良い人が晴れた日に歩き、周囲の美しい景色をはっきりと見ることができるようなものです。」
仏陀は続けました。「須菩提、もう一つ非常に重要なことをお伝えします。未来の世界で、善良な男子や女子がこの経典を理解し、記憶し、朗読することができれば、如来はその人たちを仏の智慧で完全に理解し、見抜くでしょう。」
「世尊、」一人の弟子が尋ねました。「その人たちはどのような結果を得るのでしょうか?」
仏陀は慈しみを込めて答えました。「彼らは計り知れない、無限の功徳を成就するでしょう。」
須菩提は考え込んで言いました。「私は理解しました、世尊。あなたは、真にこの経典を理解する人々は巨大な智慧と功徳を得ると言っているのですね?」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。しかし、もっと重要なのは、彼らが晴れた日差しの中で歩く人のように、世界の真実をはっきりと見ることができるということです。」
年長の弟子が尋ねました。「世尊、私たちはどのように修行すれば、そのような境地に達することができるのでしょうか?」
仏陀は慈しみを込めて答えました。「鍵は執着しないことです。善行を行うとき、どのような概念や法則にも執着してはいけません。あなたたちの心を澄んだ湖のようにし、すべてを反映しながらも、何にも執着しないようにしてください。」
弟子たちは仏陀の教えを聞いて、深く考え込みました。彼らは、真の智慧は特定の教義に執着することではなく、開かれた無執着の心を持つことにあると気づきました。
仏陀は最後に言いました。「覚えておいてください。あなたたちがこのような心構えでこの経典を理解し、実践できるようになれば、無限の智慧と功徳を得ることができるでしょう。あなたたちは世界の真実を明るい日差しの下で見ることができるようになります。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、新たな理解が心に芽生えるのを感じました。彼らは、修行の道が困難であっても、正しい心構えを持ち続ければ、仏陀が描いた清明で智慧に満ちた境地に達することができると理解しました。
「須菩提よ!もし善男子、善女人が、朝にガンジス川の砂ほどの身を布施し、昼にもガンジス川の砂ほどの身を布施し、夕方にもガンジス川の砂ほどの身を布施し、このように無量百千万億劫にわたって身を布施したとしても、もしまた、ある人がこの経典を聞いて、信心をもって逆らわないならば、その福徳は前者に勝る。まして書写し、受持し,読誦し,人のために解説するならば、なおさらである。」
佛陀は慈悲な心で言いました。「須菩提、驚嘆に値する情景を想像してみましょう。」
すべての弟子たちは耳を傾け、佛陀がこれから何を言うのか好奇心いっぱいでした。
佛陀はゆっくりと言葉を紡ぎました。「想像してみてください。ある善良な男性または女性が、信じられないほど寛大だとしたら。」
「世尊、」若い弟子が尋ねました。「その人はどのようなことをするのでしょうか?」
佛陀は答えました。「朝方、その人が、ガンジス川の砂粒ほどの命を犠牲にして善行を積むと想像してみてください。」弟子たちは息を呑み、そんな大きな犠牲を想像するのが難しそうでした。
佛陀は続けました。「そして昼過ぎ、その人はまた同じ数の命を犠牲にして布施をします。そして夕暮れ時にも、同じ犠牲を払うのです。」
「さらに、」佛陀の声は一層重くなりました。「その人は一日だけではなく、日々、年々、果てしない時間、この行為を続けるのです。」
弟子たちは驚愕の表情で佛陀を見つめ、そんな大きな善行を想像するのが難しそうでした。
佛陀は一瞬沈黙し、そして言いました。「次に、別の状況を比べてみましょう。ある人が、ただこの経典を聞いて、真摯な心で信じるだけだとしたら。」
「世尊、」須菩提が我慢できずに尋ねました。「ただこの経典を信じるだけで、先ほどの想像を超える布施ができるのですか?」
佛陀は微笑みながら頷きました。「その通りです、須菩提。その人の得る功徳は、先ほどの人を遥かに超えるのです。」
弟子たちは驚いて耳打ちし合い、信じられない様子でした。
佛陀は続けました。「さらに、もし誰かがこの経典を信じ、書写し、暗誦し、他者に説明することができれば、彼らの得る功徳はもっと計り知れないものになるでしょう。」
年長の弟子が尋ねました。「世尊、なぜこの経典を理解し、広めることがそれほど重要なのでしょうか?」
佛陀は慈悲な心で答えました。「この経典には最も深遠な智慧が含まれているからです。それは人々が世界の真理を見極め、苦しみから解放されるのを助けます。物質的な布施と比べ、智慧を広めることの方が、より永続的で深遠な影響を与えるのです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。他者に智慧を得させることは、物質を与えることよりも価値があると言うのですね?」
佛陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。ある人がこの智慧を理解し、広めるとき、自分自身を助けるだけでなく、無数の衆生の目覚めを助けるのです。その利益は物質的に測ることはできません。」
弟子たちは佛陀の説明を聞いて、経典の力に深く感銘を受けました。彼らは、智慧を学び、広めることが個人の修行だけでなく、無数の衆生に影響を与える崇高な事業であることに気づきました。
佛陀は最後に言いました。「だから、私の愛する弟子たちよ、この経典を学び、共有する機会を軽視しないでください。ただ信じ、考えるだけでも計り知れない功徳をもたらすのです。そしてもし、あなたたちがこれをさらに深く理解し、広めることができれば、まさに世界に光明をもたらすことになるのです。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、神聖な使命感が湧き上がりました。彼らは、誰もがこの経典の智慧を学び、広めることで世界を変える機会があることを理解しました。この悟りは、彼らに学び続ける情熱と期待を抱かせました。
「須菩提よ!要するに、この経には不可思議、不可称量、無辺の功徳がある。如来は大乗を発する者のために説き、最上乗を発する者のために説く。もし人がこれを受持し読誦し、広く人のために説くことができれば、如来はこの人を悉く知り、この人を悉く見て、皆が量ることのできない、称することのできない、辺のない、不可思議な功徳を成就することを知る。このような人々は、すなわち如来の無上正等正覚を担うのである。なぜか?須菩提よ!もし小法を好む者は、我見、人見、衆生見、寿者見に執着し、この経を聞くことも、受持することも、読誦することも、人のために解説することもできない。」
佛陀は慈悲深く言われました。「須菩提、この経典の重要性を簡単にまとめさせていただきます。」須菩提と他の弟子たちは、聞き入るように耳を傾けていました。
「この経典は、」仏陀はゆっくりと言葉を紡ぎました。「その功徳は言葉では言い表せず、数字では測れず、際限がないのです。」
若い弟子の一人が我慢できずに尋ねました。「世尊、この経典はどのような人のために説かれたのですか?」
仏陀は微笑みながら答えました。「私がこの経典を説くのは、大乗仏法を修行しようとする人のためであり、最高の仏果を成就しようとする人のためなのです。」
「では、」須菩提が尋ねました。「もし誰かがこの経典を受持し、読誦し、広く他者に解説できたら、どのような結果になるのでしょうか?」
仏陀の瞳には知恵の光が宿っていました。「もしそうした人がいたら、私はその人を明確に知り、明確に見ることができるでしょう。その人は計り知れず、言い表せず、際限なく、不可思議な功徳を成就するのです。」
「世尊、」ある長老が尋ねました。「そのような人は修行の道の中でどのような位置にいるのでしょうか?」
仏陀は厳かに答えました。「そのような人は、私が証得した無上正等正覚を担っていると言えるでしょう。彼らは最高の智慧を継承し、広めているのです。」
須菩提は考え込むように尋ねました。「世尊、では、この経典を理解し受け入れられない人もいるのでしょうか?」
仏陀は頷きました。「その通りです、須菩提。浅い教えを好む人、『我』『人』『衆生』『寿者』といった概念に執着する人は、この経典を聞いたり読誦したりすることはできず、まして他者に説くこともできないのです。」
一人の弟子が困惑して尋ねました。「世尊、なぜそうなるのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く説明しました。「この経典は個我を超えた、生命形態を超えた深遠な智慧を説いているからです。もし人がまだこれらの概念に執着しているなら、経典が説く空性と無我の理を理解するのは難しいのです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。この経典を理解するには、固有の概念を放下しなければならないのですね。」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。この経典を理解するには、智慧だけでなく、開かれた心と超越しようとする勇気が必要なのです。」
「須菩提よ!どこであれ、この経があるところには、一切世間の天、人、阿修羅がすべて供養すべきである。この場所が塔であることを知るべきであり、皆が恭敬し、礼拝し、周りを巡り、様々な花や香をその場所に散布すべきである。」
佛陀は穏やかに言いました。「須菩提、非常に重要なことをお伝えします。」すべての弟子たちは息を呑んで、集中して聞いていました。
「どこにおいても、」仏陀はゆっくりと続けました。「この経典が存在する場所は、そこが神聖な場所となります。」
「本当ですか、世尊?」若い弟子が目を大きく開いて尋ねました。
仏陀は微笑みながら頷きました。「はい。この場所は、すべての天神、人間、さらには阿修羅からも供養と尊敬を受けるべきです。」
須菩提は考え込んで尋ねました。「世尊、あなたはこの経典のある場所を、仏陀の舎利を持つ仏塔と同じように神聖だとおっしゃっているのですか?」
「その通りです、須菩提、」仏陀は答えました。「この経典のある場所を、仏塔のように扱うべきです。」
「では、私たちはどのように敬意を表すべきでしょうか?」別の弟子が好奇心を持って尋ねました。
仏陀は慈しみを込めて説明しました。「この場所に対して最高の敬意を示すべきです。敬意を表して礼拝し、周りを回り、さまざまな美しい花や香料を散布するのです。」
年長の弟子が尋ねました。「世尊、なぜこの経典はそれほど神聖で、仏塔と同等に扱われるべきなのでしょうか?」
仏陀は平和な声で答えました。「この経典には最も深遠な智慧が含まれており、衆生が苦しみから解放され、真の自由を得る手助けをするからです。仏塔が仏陀の肉体を象徴するのと同様、この経典は仏陀の法身の智慧を象徴しています。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは、この経典は単なる文字ではなく、仏法の化身であり、智慧の結晶であると言っているのですね?」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。この経典を尊重することは、最高の智慧を尊重し、解放への道を尊重することなのです。」
「では、」弟子の一人が尋ねました。「私たちはこの経典をできるだけ広め、より多くの場所を神聖な場所にすべきですか?」
仏陀は穏やかに答えました。「はい、しかし覚えておいてください。経典を広めることは単に文字を配布することではなく、その中の智慧を広めることが重要です。経典の内容を理解し、生活の中で実践することで、あなたたちが行く場所すべてが神聖な場所となるのです。」
「さらに、須菩提よ!善男子、善女人が、この経を受持し読誦するとき、もし人に軽んじられるならば、この人は前世の罪業によって悪道に落ちるはずだったが、今世の人に軽んじられることで、前世の罪業は消滅し、無上正等正覚を得ることになるだろう。」
佛陀は続けて言いました。「須菩提、もう一つお伝えしたいことがあります。」弟子たちは息を呑んで、佛陀の次の言葉を待ち望んでいました。
「善良な男子や女子が、」仏陀はゆっくりと語り始めました。「彼らがこの経典を真摯に受け持ち、読誦する場合、どうなるでしょうか。」
「それは素晴らしいことですね、世尊。」一人の弟子が言いました。
仏陀は頷き、話を続けました。「しかし、もし彼らがこの経典を広める過程で、他人から軽視や侮辱を受けたら、あなたたちはそれが何を意味するか知っていますか?」弟子たちは顔を見合わせ、どう答えるべきか分かりませんでした。
須菩提は慎重に尋ねました。「世尊、それは彼らが何か間違ったことをしたということですか?」
仏陀は慈しみを込めて笑いました。「正反対です、須菩提。実際にはそれは良いことなのです。」
「良いことですか?」弟子たちは驚いて声を揃えました。
仏陀は説明しました。「はい。もしある人がこの経典を広める際に軽視されるなら、それは彼らが過去世の罪業を消し去っていることを示しています。」
「過去世の罪業とは?」若い弟子が困惑して尋ねました。
仏陀は頷きました。「その通りです。彼らは過去世で悪業を作り、悪道に堕ちるべきだったかもしれません。しかし、今世でこの経典を受け持ち、広めることで、たとえ他人から軽視されても、これらの苦しみは彼らの過去の罪業を消し去る助けとなるのです。」
須菩提は悟ったように言いました。「世尊、あなたは言いたいのですね。これらの苦しみは実際には浄化の一形態なのですね?」
「その通りです、須菩提。」仏陀は嬉しそうに言いました。「さらに、これらの軽視や侮辱を受けることで、彼らの修行は加速されるのです。」
「本当ですか、世尊?」弟子の一人が驚いて尋ねました。
仏陀は厳かに言いました。「はい。彼らは過去の罪業を消し去るだけでなく、将来的には無上正等正覚を得ることができるでしょう。」弟子たちはこの言葉に驚きと喜びを感じました。
年長の弟子が尋ねました。「世尊、これは私たちが法を広める際に困難に直面した場合、むしろ喜ぶべきだということですか?」
仏陀は微笑んで答えました。「重要なのは、困難を求めることではなく、困難に対して正しい態度を持つことです。障害に直面したとき、それは罰ではなく、成長と浄化の機会であることを思い出してください。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは私たちに、逆境の中でも法に対する信頼と敬意を持ち続けるよう教えているのですね。」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。真の修行者は外的な困難に揺らがず、むしろそれを修行の助けとして受け入れるのです。」
「須菩提よ!私は過去無量阿僧祇劫において、燃燈仏の前で、八百四千万億那由他の諸仏に出会い、すべてを供養し奉仕し、空しく過ごすことはなかった。もしまた、ある人が、後の末世にこの経を受持し読誦できるならば、その得る功徳は、私が諸仏を供養した功徳の百分の一にも及ばず、千万億分の一にも、乃至算数や譬喩でも及ぶことができない。」
佛陀は穏やかに言いました。「須菩提、私の過去についての一つの物語をお話ししましょう。」弟子たちは息を呑んで、その神秘的な物語を待ち望んでいました。
「無数の劫の昔、」仏陀は回想しました。「然燈仏の時代に、私は数え切れないほどの仏陀に出会いました。」
「何人の仏陀ですか、世尊?」若い弟子が好奇心を持って尋ねました。
仏陀は微笑みながら答えました。「具体的には、八百四千万億那由他の仏陀です。」弟子たちは驚きの声を上げ、その巨大な数字を想像するのが難しい様子でした。
仏陀は続けました。「その長い年月の間、私はそれぞれの仏陀に敬虔に供養し、仕えました。一度も怠ることはありませんでした。」
須菩提は敬意を込めて尋ねました。「世尊、そのような功徳は無量無辺でしょうか?」
仏陀は頷きましたが、すぐに話を転じました。「しかし、須菩提、もっと驚くべきことをお伝えします。」
「もし未来の末法の時代に、」仏陀はゆっくりと言いました。「誰かがこの『金剛経』を受持し、読誦するならば、彼らが得る功徳は、私が過去に行ったすべてを遥かに超えるのです。」
一人の長老が我慢できずに尋ねました。「世尊、あなたは言いたいのですか、単にこの経典を読誦するだけで、そんなに多くの仏陀に供養することを超えるのですか?」
仏陀は厳かに答えました。「その通りです。私が過去に供養した仏陀の功徳は、未来にこの経典を読誦する人々と比べて、1%にも満たない、さらには千兆分の1にも及ばないのです。実際、この差はどんな数字や比喩でも表現できないほど大きいのです。」
弟子たちはこの情報の深い意味に驚き、思索にふけりました。須菩提は慎重に尋ねました。「世尊、なぜこの経典はそれほど特別なのでしょうか?なぜそれがそんなに大きな功徳をもたらすのですか?」
仏陀は慈しみを込めて説明しました。「須菩提、それはこの経典が最も深遠な智慧を含んでいるからです。人々が真理を理解する手助けをし、苦しみから解放されるのです。末法の時代に、このような智慧を学び、広めることは計り知れない価値があります。」
一人の弟子が思慮深く言いました。「それはつまり、困難な時代に正法を守ることは、仏陀の時代に修行することよりも貴重で価値があるということですね?」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです。逆境の中で真理を守ることは、順境の中で修行することよりも貴重です。これは智慧だけでなく、非常に大きな勇気と信念が必要です。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは私たちに、どんな時代でもこの貴重な智慧を大切にし、広めるようにと教えているのですね。」
仏陀は微笑んでまとめました。「その通りです、須菩提。真の修行は外面的な形式ではなく、内面的な覚悟にあります。この経典はその覚悟を開くための鍵なのです。」
「須菩提よ!もし善男子、善女人が、後の末世にこの経を受持し読誦し、その得る功徳を私が詳しく説くならば、あるいは人がそれを聞いて、心が狂乱し、疑って信じないかもしれない。須菩提よ!この経の意味は不可思議であり、その果報も不可思議であることを知るべきである。」
佛陀は言いました。「須菩提、私はあなたたちに非常に重要なことをお伝えしたい。」弟子たちは息を呑んで、佛陀の次の言葉を待ち望んでいました。
「未来の末法の時代に、」佛陀はゆっくりと続けました。「善良な男子や女子がこの経典を受持し、読誦するならば、彼らは想像を超える功徳を得るでしょう。」
「世尊、」若い弟子が興奮して尋ねました。「その功徳はどれほどのものですか?」
仏陀は神秘的な微笑を浮かべました。「実際に、私がその功徳を詳しく説明すると、予期しないことが起こるかもしれません。」
「どんなことですか、世尊?」須菩提が好奇心を持って尋ねました。
仏陀はゆっくりと説明しました。「もし私が詳細にその功徳を述べるなら、聞いた人々は理解できずに混乱し、果たしてそれが本当なのか疑うかもしれません。」弟子たちは驚き、そんなに大きな功徳があるとは信じられない様子でした。
一人の長老が慎重に尋ねました。「世尊、あなたはこの経典の力が私たちの理解を超えていると言っているのですか?」
仏陀は頷きました。「その通りです。須菩提、この経典の意味は常識では考えられず、それがもたらす果報も想像を超えています。」
「しかし、世尊、」須菩提が困惑して尋ねました。「もし説明することさえ疑念を生むのなら、私たちはこの経典をどのように理解し、信じればよいのでしょうか?」
仏陀は慈しみを込めて答えました。「須菩提、重要なのは頭で完全に理解することではなく、心で感じ、実践することです。真理はしばしば言語や思考の限界を超えています。」
一人の弟子が思いを巡らせて言いました。「それは大海のようですね、世尊。私たちはその深さを測ることはできませんが、その広大さと重要性は知っています。」
仏陀は微笑んで言いました。「それは素晴らしい比喩です。大海のように、この経典の深さと広がりは完全には測れませんが、その価値は計り知れません。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは私たちに、開かれた謙虚な心でこの経典に接し、限られた思考で完全に理解しようとするのではなく、心を開くことを教えているのですね。」
仏陀は頷きました。「その通りです、須菩提。重要なのは、開かれた信じる心を持つことです。修行が進むにつれて、経典の意味が徐々に明らかになるでしょう。」
「では、世尊、」別の弟子が尋ねました。「私たちは、この経典に疑念を抱く人々にどのように接すればよいのでしょうか?」
仏陀は穏やかに答えました。「慈悲と思いやりの心で接してください。人々の理解力や受け入れの程度は異なります。重要なのは、あなたたち自身が模範を示し、自らの修行を通じてこの経典の力を示すことです。」
最後に、仏陀はまとめました。「この経典の真の価値は、それが約束する功徳にあるのではなく、あなたたちが覚醒する力にあります。忍耐と信念を持ち続け、修行を続けていれば、必ずその素晴らしさを体験できるでしょう。」
その時、須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!善男子、善女人が無上正等正覚の心を発したとき、どのように住すべきでしょうか?どのようにその心を降伏すべきでしょうか?」
このとき、須菩提は立ち上がりました。彼の瞳には求道の光が宿っていました。彼は敬意を込めて仏陀に頭を下げ、言葉を発しました。「世尊、私には一つ質問があります。」
仏陀は須菩提を慈しみを込めて見つめ、微笑みながら言いました。「どうぞ、須菩提。」
須菩提は尋ねました。「世尊、もし善良な男性や女性が無上正等正覚を求める心を起こしたなら、どのように自分の心を安住させればよいでしょうか?」須菩提は続けて言いました。「さらに、世尊。これらの発心した人々は、どのように自分の心を調伏すべきなのでしょうか?」
仏陀は須菩提を見つめ、賞賛の眼差しを向けました。彼は言いました。「須菩提、これは非常に良い質問です。あなたは修行の中で最も重要な二つの問題、すなわち心をどのように安住させ、どのように調伏するかを提起しました。」
周りの弟子たちは耳を傾け、仏陀の答えを待ち望んでいました。彼らは、須菩提のこの質問が、発心したばかりの人々だけでなく、座にいる全ての修行者に関係していることを知っていました。
仏陀は微笑みながら言いました。「この問題は修行の根本に関わっています。発心して無上正等正覚を求める人々をどのように導いていくべきか、慎重に検討してみましょう。」
仏は須菩提に告げられた:「善男子、善女人が無上正等正覚を発する者は、このような心を生じるべきである:『私はすべての衆生を滅度させるべきである。すべての衆生を滅度させた後も、実際に滅度した衆生は一人もいない。』なぜか?もし菩薩に我相、人相、衆生相、寿者相があれば、それは菩薩ではない。なぜならば、須菩提よ!実際には無上正等正覚を発する法はないのである。」
仏陀は須菩提の質問に答えました。「須菩提、無上正等正覚を求める善男子善女は、自分の心をこのように養うべきです。」
仏陀はゆっくりと語り始めました。「彼らは次のような心を起こすべきです。『私は全ての衆生を解脱させるべきである。』」
若い弟子の一人が我慢できずに割り込みました。「それは崇高な目標に聞こえます、世尊!」
仏陀は頷きましたが、すぐに話を転じました。「しかし、彼らはさらに進んで考えるべきです。『私が全ての衆生を解脱させた後も、実際には何一つ解脱した衆生はいないのだ。』」
須菩提は慎重に尋ねました。「世尊、それは矛盾しているようですが、なぜそう考えるべきなのでしょうか?」
仏陀は優しく説明しました。「須菩提、それは執着を避けるためです。もし菩薩の心に『我』『人』『衆生』『寿命』といった概念が存在するなら、彼はまだ真の菩薩ではありません。」
「しかし世尊、」ある長老が尋ねました。「これらの概念がなければ、どのように衆生を救うことができるのでしょうか?」
仏陀は微笑みながら答えました。「無執着に助けることが鍵です。衆生を助けるが、『助ける者』と『助けられる者』の概念に執着してはいけません。」
須菩提は考え込みながら言いました。「私はわかったような気がします、世尊。真の菩薩行とは、どんな執着もなく自然に行うべきだと言っているのですね?」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。実際のところ、最も深い意味では、誰かが無上正等正覚を成就させる実在の『法』などありません。」
若い弟子が困惑して尋ねました。「世尊、もし私たちを菩提に至らしめる実在の法がないのなら、なぜ修行しなければならないのでしょうか?」
仏陀は優しく答えました。「修行の目的は何かを得ることではなく、何かを手放すことです。すべての執着と概念を手放せば、自然と真理に適うのです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは私たちに、真の修行とは全ての概念と執着を超越することだと教えているのですね。私たちは衆生を助けるが、助ける行為に執着してはいけません。覚悟を求めるが、覚悟の概念に執着してはいけません。」
仏陀は微笑んでまとめました。「その通りです、須菩提。それが菩薩道の要諦です。執着なく行い、度すべきものを度す。そうすることで、私たちは真に心を安住させ、調伏することができるのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来は燃燈仏のもとで、法を得て無上正等正覚を得たのだろうか?」「いいえ、世尊よ!私が仏の説かれた意味を理解するところでは、仏は燃燈仏のもとで、無上正等正覚を得る法はありませんでした。」
「須菩提よ、」仏陀は優しく言いました。「私にお聞きしたいことがあります。」須菩提はすぐに身を起こし、敬意を込めて答えました。「はい、世尊。どうぞ。」
仏陀はゆっくりと語り始めました。「お前は思うに、私が然燈仏のもとにいた時、私は何か特定の法を得て、無上正等正覚を成就したのだろうか?」
須菩提は目を閉じ、しばらく慎重に考えました。目を開けた時、彼の顔には確信に満ちた表情が浮かんでいました。
「いいえ、世尊!」須菩提は確固とした口調で答えました。須菩提は続けて説明しました。「私が仏陀の教えを理解する限り、あなたは然燈仏のもとで無上正等正覚を成就するための特定の法を得たのではありません。」
仏陀の顔には賞賛の微笑みが浮かびましたが、他の弟子たちはさらに困惑した様子でした。
若い弟子の一人が我慢できずに尋ねました。「須菩提尊者、なぜそのようにお考えなのですか?仏陀は然燈仏から授記を得なかったのですか?」
須菩提は優しく説明しました。「はい、仏陀は確かに授記を得ました。しかし、もし私たちが具体的な『法』が伝授されたり得られたりすることにこだわるなら、それは先ほど議論した無執着の精神に反することになります。」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「よく言った、須菩提。お前は私の教えを深く理解しているな。」
別の長老が尋ねました。「では、世尊、特定の法を得ずに、どのようにして無上正等正覚を成就されたのですか?」
仏陀は慈悲深く答えました。「肝心なのは何かを得ることではなく、手放すことです。然燈仏のもとで私は何かを得たのではなく、執着を手放したのです。まさにその手放しによって、私は最終的に悟りを開いたのです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは私たちに、真の悟りは得ることによってではなく、手放すことによって実現されると教えているのですね。」
仏陀は微笑みながらまとめました。「その通りです、須菩提。悟りとは加えることではなく、引くことなのです。私たちが全ての執着と妄念を手放せば、本来の面目、すなわち本来具足の覚性が自然に現れるのです。」
仏は言われた:「そのとおりである、そのとおりである!須菩提よ!実際には如来が無上正等正覚を得た法はない。須菩提よ!もし如来が無上正等正覚を得た法があれば、燃燈仏は私に『汝は来世に仏となり、釈迦牟尼と号するであろう。』と授記しなかっただろう。実際には無上正等正覚を得る法がないからこそ、燃燈仏は私に授記して、このように言ったのである:『汝は来世に仏となり、釈迦牟尼と号するであろう。』なぜか?如来とは、すなわち諸法の如くの義である。」
仏陀は優しく言いました。「よく言った、須菩提!まさにその通りです!」仏陀はゆっくりと語り始めました。「確かに、如来が無上正等正覚を得るための具体的な法はありません。」
若い弟子の一人が我慢できずに尋ねました。「世尊、本当に具体的な法がないのなら、なぜ然燈仏があなたに授記を与えたのですか?」
仏陀は優しく弟子を見つめ、説明しました。「正反対です。具体的な得るべき法がないからこそ、然燈仏は私に授記を与えたのです。」弟子たちは顔を見合わせ、少し混乱した様子でした。
仏陀は続けました。「もし成仏するための具体的な法があるとすれば、然燈仏は私に『あなたは未来世に釈迦牟尼という名の仏となるであろう』とは言わなかったでしょう。」
須菩提は考え込むように言いました。「わかりました、世尊。あなたは、悟りが外在の法に依存しないからこそ、然燈仏があなたが必ず成仏すると確信できたのだと言っているのですね?」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「その通りです、須菩提。固定された得るべき法がないからこそ、然燈仏は私に『あなたは必ず釈迦牟尼という名の仏となるであろう』と授記を与えたのです。」
ある長老が尋ねました。「世尊、『如来』という称号にはどのような特別な意味があるのでしょうか?」
仏陀は微笑みながら答えました。「『如来』とは『如実に来る』という意味で、諸法の本来の姿に完全に適うことを意味しています。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは私たちに、真の悟りとは特別な能力や知識を得ることではなく、宇宙の万物の本質を完全に悟ることだと教えているのですね。」
仏陀は賞賛して言いました。「その通りです、須菩提。悟りとは何かを得ることではなく、万物の真の本性を徹底的に理解することです。私たちがその本性に完全に適えば、それが如来なのです。」
若い弟子が困惑して尋ねました。「しかし世尊、特定の修行法がないのなら、私たちはどのように修行すべきなのでしょうか?」
仏陀は優しく答えました。「修行の本質は得ることではなく、手放すことです。私たちの執着、偏見、妄想を手放すのです。それらを完全に手放せば、私たちの本来の面目、すなわち本来具足の仏性が自然に現れるのです。」
須菩提がまとめました。「つまり、世尊、真の修行とは外在のものを求めることではなく、私たちの本来の姿に還ることだと言っているのですね?」
仏陀は微笑みながら頷きました。「その通りです、須菩提。真の修行とは自己の本性を認識し、万物の実相と調和することです。それが『如来』の真の意味なのです。」
「もし人が『如来は無上正等正覚を得た。』と言うならば、須菩提よ!実際には仏が無上正等正覚を得た法はない。須菩提よ!如来の得た無上正等正覚には、その中に実も虚もない。それゆえに如来は説く:『一切法はすべて仏法である。』須菩提よ!一切法と言うものは、すなわち一切法ではない。それゆえに一切法と名付けるのである。」
仏陀は続けて言いました。「須菩提、もう一度この問題を深く探求しましょう。」仏陀はゆっくりと続けました。「もし誰かが言うならば、『如来は無上正等正覚を得た。』須菩提、あなたは知っておくべきです。実際には、仏陀が無上正等正覚を得るための具体的な法は存在しません。」
若い弟子の一人が困惑して尋ねました。「世尊、もし何も得ていないのなら、成仏とは何を意味するのですか?」
仏陀は慈しみを込めて微笑み、説明しました。「須菩提、如来が証得した無上正等正覚は、この境地において、実在でもなく、虚幻でもありません。」弟子たちは顔を見合わせ、ますます困惑した様子でした。
須菩提は考え込むように言いました。「世尊、あなたの言うことは、悟りの境地が私たちが通常理解する『実』と『虚』の概念を超えているということですね?」
仏陀は頷きました。「その通りです、須菩提。だからこそ、私はよく言います:『すべての法は仏法である。』」
長老が尋ねました。「世尊、『すべての法は仏法である』という言葉は、世の中のすべての現象が私たちの修行の対象になるということを意味していますか?」
仏陀は微笑んで答えました。「あなたの言う通りですが、さらに深く理解する必要があります。須菩提、私が『すべての法』と言うとき、実際にはこの『すべての法』は本当の『すべての法』ではありません。だからこそ、私たちはそれを『すべての法』と呼ぶのです。」
須菩提は深く考え、次のように言いました。「世尊、私は理解したと思います。あなたは、私たちが『すべての法』という概念に執着すると、二元的な思考に陥ると言っているのですね。本当の『すべての法』は、概念を超えたものであると。」
仏陀は満足そうに微笑みました。「よく言った、須菩提!あなたはこの深い真理を理解しました。」
若い弟子が困惑して尋ねました。「しかし世尊、『すべての法』が本当の『すべての法』ではないのなら、私たちはこの世界をどのように理解すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈しみを込めて答えました。「重要なのは、この世界を理解することではなく、私たちの固有の概念を超えることです。『法』に対する執着を手放し、世界を『これ』と『あれ』に分けることをやめると、私たちは万法の実相を真に体験できるのです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。あなたは私たちに、世界を見る新しい方法、すなわち二元的対立を超えた視点を持つよう教えているのですね。」
仏陀は満足そうに頷きました。「その通りです、須菩提。このように世界を見ることができれば、なぜ『すべての法は仏法である』と言えるのか、同時に『すべての法ではない』とも言えるのかを理解できるでしょう。これが真の智慧です。」
「須菩提よ!たとえば人の身体が大きいようなものである。」須菩提は言った:「世尊よ!如来が説く人の身体が大きいというのは、すなわち大きな身体ではなく、これを大きな身体と名付けるのです。」
「須菩提よ、」仏陀は優しく言いました。「人の身体について話しましょう。例えば、ある人の身体が大きいとします。」
須菩提は少し考えた後、敬意を込めて答えました。「世尊、あなたのお意図がわかります。如来が人の身体が大きいと言われても、実際にはそれは真の意味での大きな身体ではありません。だからこそ、私たちはそれを『大身』と呼ぶのです。」
弟子たちはこれを聞いて、さらに混乱した様子でした。若い弟子の一人が我慢できずに尋ねました。「須菩提尊者、それはどういう意味ですか?人の身体が大きければ大きいのに、なぜ真の大きな身体ではないのですか?」
須菩提は微笑みながら説明しました。「先ほど議論した『すべての法』と同じように、私たちが『大』という概念に執着すると、相対的な思考に陥ってしまうのです。」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「よく言った、須菩提。要点をつかんでいる。」
ある長老が考え込むように言いました。「私はわかったような気がします。『すべての法』が本当の『すべての法』ではないように、『大身』も真の『大身』ではないのですね。私たちがそれを『大身』と呼ぶのは、『大』という概念の相対性と空性に気づいているからこそなのです。」
仏陀は賞賛して言いました。「みなよく理解している。この比喩の目的は、私たちが日常的に使う『大』『小』『善』『悪』などの概念は、みな相対的であり、心識が構築したものだということを悟らせることです。」
須菩提は補足しました。「ですから、ある人の身体を『大身』と呼ぶとき、実は『大』という概念の限界を認めているのです。この点に気づくからこそ、私たちはこの二元的思考を超えられるのです。」
仏陀は微笑みながらまとめました。「その通りです。このように世界を理解できるようになれば、概念への執着から徐々に解放され、事物の真の本性に近づけるでしょう。だからこそ私は『非大身、是名大身』と言うのです。」
弟子たちはこれを聞いて、悟ったような表情になりました。彼らは、仏陀がこの単純な比喩で、深遠な真理を明らかにしていることに気づきました。この世界を真に理解するには、私たちが当然のように使っている概念や分類を超越する必要があるのです。
若い弟子が興奮して言いました。「世尊、素晴らしいです!これは私たちが世界に対する認識を根本から見直すべきだということですか?」
仏陀は優しく答えました。「その通りです。ただし、これは日常の経験を否定することではなく、もっと開かれた賢明な視点で世界を見ることです。それができるようになれば、解脱に一歩近づけるでしょう。」
「須菩提よ!菩薩もまたそのようである。もし『私は無量の衆生を滅度させよう。』と言うならば、菩薩とは名付けられない。なぜか?須菩提よ!菩薩と名付ける法はない。それゆえに仏は説く:『一切法には我もなく、人もなく、衆生もなく、寿者もない。』須菩提よ!もし菩薩が『私は仏国土を荘厳しよう。』と言うならば、それは菩薩とは名付けられない。なぜか?如来が説く仏国土を荘厳するとは、すなわち荘厳ではなく、これを荘厳と名付けるのである。須菩提よ!もし菩薩が無我の法を通達するならば、如来はそれを真の菩薩と名付ける。」
仏陀は続けて言いました。「須菩提、この道理を菩薩の修行に応用してみましょう。」すべての弟子たちは耳を傾け、仏陀の教えを待ち望んでいました。
仏陀はゆっくりと続けました。「もしある菩薩が言うならば、『私は無量の衆生を救済する。』須菩提、どう思いますか?このような人は実際には真の菩薩とは呼べません。」
弟子たちは驚いて目を大きく開きました。若い弟子の一人が我慢できずに尋ねました。「世尊、なぜですか?衆生を救うことは菩薩の本願ではないのですか?」
仏陀は慈しみを込めて説明しました。「須菩提、実際には固定不変の『法』として菩薩と呼べるものは存在しません。だからこそ、私はよく言います:『すべての法は無我、無人、無衆生、無寿者である。』」
須菩提は考え込んで言いました。「わかりました、世尊。あなたは、真の菩薩は『私』が衆生を救うという概念に執着しないということですね?」
仏陀は嬉しそうに頷きました。「その通りです、須菩提。もう一つ例を挙げましょう。もしある菩薩が言うならば、『私は仏土を荘厳する。』このような人も同様に真の菩薩とは呼べません。」
弟子たちは再び困惑しました。ある長老が尋ねました。「世尊、仏土を荘厳することは良いことではないのですか?」
仏陀は微笑んで答えました。「私が言う荘厳仏土は、実際には真の荘厳ではありません。だからこそ、私たちはそれを荘厳と呼ぶのです。」
須菩提は悟ったように言いました。「わかりました、世尊。先ほどの『大身』の議論と同じように、真の荘厳は荘厳という概念に執着しないことですね。」
仏陀は賞賛して言いました。「よく言った、須菩提。真の菩薩は無我の法を理解している人々です。このような人だけが如来から真の菩薩と呼ばれるのです。」
若い弟子が尋ねました。「世尊、では私たちはどのように修行すればよいのでしょうか?私たちは衆生を救い、仏土を荘厳することを願っているのではありませんか?」
仏陀は慈しみを込めて答えました。「重要なのは、これらの行為をしないことではなく、これらの行為や概念に執着しないことです。真の菩薩は自然に衆生を利益し、仏土を荘厳しますが、『私がこれをしている』という考えには執着しません。」
須菩提は補足しました。「私は理解したと思います、世尊。真の菩薩行は無我であり、無執着です。彼らの行動は明鏡のように、世間の必要を自然に反映し、行動そのものに執着しないのです。」
仏陀は嬉しそうに言いました。「その通りです、須菩提。ある人が本当に無我の智慧を理解し実践すると、そのすべての行動は自然に衆生を利益し、無理に行う必要はありません。これが真の菩薩行です。」
弟子たちはこの話を聞いて深く考え込んでいました。彼らは、仏陀の教えが修行の方法にとどまらず、生命全体の態度に対する根本的な革新であることを認識しました。
ある弟子が感慨深く言いました。「世尊、これは本当に深遠です。私たちはまだ長い道のりを歩まなければなりませんね。」
仏陀は慈しみを込めて笑いました。「心配しないでください。修行は逆水行舟のようなものです。進まなければ退くのです。重要なのは、正念を保ち、常に自分の心を観照することです。時間が経つにつれて、あなたたちはこの無我の智慧を徐々に体験できるでしょう。」
弟子たちはこの言葉を聞いて、畏敬の念とともに奮い立つ気持ちを抱きました。彼らは、修行の道が困難であっても、仏陀の教えに従って進むことで、無我で無執着の境地に達することができると確信しました。
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には肉眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には肉眼があります。」
佛陀忽然轉向須菩提,問了一個看似簡單的問題:「須菩提,你怎麼看?如来有肉眼吗?」
この突如としての質問は、すべての弟子たちを驚かせました。彼らは顔を見合わせ、仏陀がなぜこのように明らかに見える質問をしたのか理解できませんでした。
須菩提は深く息を吸い、しばらく考えました。彼は、仏陀のすべての質問には深い知恵が含まれていることを知っており、軽々しく答えてはいけないと感じていました。
最後に、須菩提は敬意を表して答えました:「はい、世尊!如来は確かに肉眼を持っています。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には天眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には天眼があります。」
佛陀は須菩提を見つめ、続けて尋ねた。「須菩提、あなたはどう思いますか?如来には天眼がありますか?」
「はい、世尊!」須菩提は敬意を表して答えた。「如来には確かに天眼があります。」
弟子たちはこの答えを聞いて、考え込んだ。一人の若い弟子がそばの先輩に静かに尋ねた。「天眼とは何ですか?肉眼とは何が違うのですか?」
その先輩は低い声で説明した。「天眼は常人を超えた視力で、肉眼では見えないものを見ることができる。例えば、遠くの物事や他の世界の景色を見ることができる。」
若い弟子は驚いて言った。「本当に信じられない!」
その時、仏陀の視線が群衆を見渡し、彼らの心の疑問を見透かしたかのようだった。彼は微笑んで言った。「その通りです。如来は確かに天眼を持っています。しかし、須菩提、天眼の真の意味は何か教えてくれますか?」
須菩提は敬意を表して答えた。「世尊、私の考えでは、天眼は単なる超凡な視力ではなく、世間の本質を洞察する能力です。それは表面的なものを超えて、物事の本質を見抜くことができます。」
仏陀は満足そうに頷いた。「よく言った、須菩提。天眼は神通の一つではなく、智慧の象徴でもあります。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んだ。彼らは、仏陀がこれらの問いを提起したのは、神通を誇示するためではなく、より深い問題を考えさせるためであることに気づき始めた。
一人の長老が我慢できずに尋ねた。「世尊、では天眼を持つことの意味は何ですか?」
仏陀は優しく答えた。「天眼を持つ真の意味は、世間の真実を見抜き、因果の法則を理解し、より良く衆生を助けることにあります。しかし、覚えておいてください。たとえ天眼を持っていても、それに執着してはいけません。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には慧眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には慧眼があります。」
仏陀の視線がより深くなり、宇宙の奥義を見透かすかのようだった。彼は続けて尋ねた。「須菩提、あなたはどう思いますか?如来には慧眼がありますか?」
須菩提は深く息を吸い、しばらく目を閉じて考えこんだ。目を開けると、知恵の光が瞳に宿っていた。
「はい、世尊!」須菩提は確信を持って答えた。「如来には確かに慧眼があります。」
弟子たちはこの答えを聞いて、考え込んだ表情になった。一人の若い弟子が我慢できずに隣の先輩に小さな声で尋ねた。「慧眼とは何ですか?肉眼や天眼とはどう違うのですか?」
その先輩は小さな声で説明した。「慧眼は天眼よりも深い境地です。表面的な現象だけでなく、物事の本質や真理を洞察することができるのです。」
若い弟子は驚嘆して言った。「それは素晴らしいことですね!」
仏陀は群衆を優しく見つめ、言った。「その通りです。如来は慧眼を持っています。しかし、須菩提、慧眼の真の意味は何か教えてくれますか?」
須菩提は敬意を表して答えた。「世尊、私の考えでは、慧眼は世間を超越した知恵の眼です。あらゆる虚妄を見抜き、諸法の実相に到達することができます。慧眼があれば、世間の真実を理解し、表面的なものに惑わされることはありません。」
仏陀は満足そうに頷いた。「よく言った、須菩提。慧眼は最高の知恵であり、二元性を超越し、真理を直接体得することができるのです。」
一人の長老が尋ねた。「世尊、では慧眼を持つことの意味とは何でしょうか?どのように修行すれば慧眼を得ることができるのでしょうか?」
仏陀は優しく答えた。「慧眼を持つ真の意味は、あらゆる執着と煩悩から完全に解脱し、諸法の実相を体得することです。慧眼を得るためには、般若の知恵を修め、無我と空性の知恵を培うことが鍵となります。」
須菩提は考え込んだように言った。「世尊、これは慧眼が外的な能力ではなく、内なる悟りの状態を意味しているということでしょうか?」
仏陀は賞賛して言った。「その通りです、須菩提。慧眼は外の世界を見るためのものではなく、自心を観照するためのものです。自己の本性を明確に見ることができるとき、慧眼を手に入れたのです。」
弟子たちはこれを聞いて、畏敬と興奮の念に駆られた。修行の究極の目的は神通を得ることではなく、自性を徹底的に悟ることだと理解したのである。
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には法眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には法眼があります。」
仏陀の視線がより深くなり、時空の奥義を見透かすかのようだった。彼は続けて尋ねた。「須菩提、あなたはどう思いますか?如来には法眼がありますか?」
須菩提は深く息を吸い、しばらく目を閉じて考え込んだ。目を開けると、瞳には確固たる光が宿っていた。
「はい、世尊!」須菩提は力強く答えた。「如来には確かに法眼があります。」
弟子たちはこの答えを聞いて、考え込んだ表情を浮かべた。一人の若い弟子が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「法眼とは何ですか?これまでの目とは何が違うのですか?」
その先輩は小声で説明した。「法眼はより殊勝な智慧の眼です。それはすべての法の本質を洞察し、異なる衆生に応じて適切な教法を設けることができるのです。」
若い弟子は驚いて言った。「それは本当に素晴らしいことですね!仏陀の智慧は本当に尽きることがないようです!」
仏陀は微笑みながら群衆を見つめ、言った。「その通りです。如来は法眼を持っています。しかし、須菩提、法眼の真の意味は何か教えてくれますか?」
須菩提は敬意を表して答えた。「世尊、私の考えでは、法眼は諸法の実相を洞察し、適切な時と場所で仏法を用いて衆生を教化することができる智慧です。法眼があれば、私たちは衆生の根機を理解し、最も適した教えを与えることができます。」
仏陀は満足そうに頷いた。「よく言った、須菩提。法眼はすべての法門を通達し、巧みに運用することができる智慧です。それによって如来は機に応じて法を説き、異なる根器を持つ衆生を解放する手助けをします。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んだ。彼らは、仏陀がこれらの問いを提起したのは、彼らが仏陀の智慧の異なる側面を段階的に理解するための導きであることに気づき始めた。
一人の長老が尋ねた。「世尊、では法眼を持つことの意味は何でしょうか?私たちはどのように修行すれば法眼を得ることができるのでしょうか?」
仏陀は優しく答えた。「法眼を持つ真の意味は、すべての法門を通達し、巧妙にそれらを運用して衆生を助けることにあります。法眼を得るためには、経蔵を深く学び、多くの知識を広め、実践を通じて法の真義を不断に体得することが重要です。」
須菩提は考え込んだように言った。「世尊、これは法眼が単なる智慧ではなく、慈悲の現れでもあるということでしょうか?なぜなら、その目的はより良く衆生を助けるためだからです。」
仏陀は賞賛して言った。「その通りです、須菩提。法眼は智慧と慈悲の完璧な結合です。法眼を持つことで、私たちは真理を理解するだけでなく、効果的に衆生を解放の道へ導くことができます。」
弟子たちはこれを聞いて、畏敬と興奮の念に駆られた。彼らは、修行は自らの解脱のためだけでなく、より多くの衆生を助けるためでもあることを理解した。
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来には仏眼があるだろうか?」「はい、世尊よ!如来には仏眼があります。」
仏陀の視線がより深くなり、宇宙の奥義を見通すかのようだった。彼は続けて尋ねた。「須菩提、あなたはどう思いますか?如来には仏眼がありますか?」
須菩提は深く息を吸い、しばらく目を閉じて考え込んだ。目を開けると、瞳には並はずれた確信と畏敬の光が宿っていた。
「はい、世尊!」須菩提は確信を持って答えた。「如来には確かに仏眼があります。」
弟子たちはこの答えを聞いて、深い畏敬の念に包まれた。一人の若い弟子が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「仏眼とは何ですか?これまでの目よりもさらに殊勝なものに聞こえます。」
その先輩は小声で説明した。「仏眼は究極の完成された智慧の眼です。これまでの目を含み、それらを超越しています。仏眼はすべてを洞察し、すべてを知ることができるのです。」
若い弟子は驚嘆して言った。「それは信じられないことですね!仏陀の智慧は本当に限りがないようです!」
仏陀は微笑みながら群衆を見つめ、言った。「その通りです。如来は仏眼を持っています。しかし、須菩提、仏眼の真の意味は何か教えてくれますか?」
須菩提は敬意を表して答えた。「世尊、私の考えでは、仏眼は最も完成された究極の智慧です。それは先ほど述べた肉眼、天眼、慧眼、法眼を含み、さらにそれらを超越しています。仏眼は世間と出世間のすべての真理を同時に見ることができ、過去、現在、未来のすべてを知り、すべての衆生の根機と縁を洞察することができるのです。」
仏陀は満足そうに頷いた。「よく言った、須菩提。仏眼は最も完成された智慧の眼です。それによって如来は宇宙のすべての真理を全面的に理解し、最も適切な方法で衆生を教化することができるのです。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索と畏敬の念に捕らわれた。彼らは、仏陀の智慧がいかに深遠で完成されたものであるかを悟り始めた。
一人の長老が尋ねた。「世尊、では仏眼とこれまでの目との違いは何でしょうか?私たちはどのように仏眼を理解すべきでしょうか?」
仏陀は優しく答えた。「仏眼は、すべての智慧の眼の総合体であり、それらを超越したものです。それは現象界のすべてを見るだけでなく、本体界の実相をも洞察することができます。仏眼によって如来は、世間と出世間のすべての真理を同時に理解し、それらを完璧に活用して衆生を利益することができるのです。」
須菩提は考え込んだように言った。「世尊、これは仏眼が究極の悟りの境地、すなわち宇宙と生命の真理を完全に理解した状態を意味しているということでしょうか?」
仏陀は賞賛して言った。「その通りです、須菩提。仏眼とは最も完成された悟りの状態のことです。仏眼を持つとは、宇宙の真理を完全に理解し、すべての執着と分別を超越することを意味しているのです。」
弟子たちはこれを聞いて、畏敬と憧れの念に駆られた。彼らは、仏眼が修行の最高の境地を表しており、自らが目指すべき究極の目標であることを悟ったのである。
「須菩提よ!あなたはどう思うか?ガンジス川にある砂について、仏はこれを砂と言うだろうか?」「はい、世尊よ!如来はこれを砂と言われます。」
仏陀の視線がガンジス川に向けられた。その川は無数の生命を育んできた神聖な流れである。彼は穏やかに尋ねた。「須菩提、あなたはどう思いますか?ガンジス川のすべての砂粒を、私は砂だと言いますか?」
須菩提は波光きらめく川面を見つめ、仏陀の問いをじっくりと考えた。彼はかつて裸足でガンジス川の岸を歩き、細かい砂が足の指の間を流れていく感触を思い出した。しばらくして、彼は確信を持って答えた。「はい、世尊!如来は確かにそれを砂だと言います。」
仏陀は微笑みながら頷き、彼の眼差しには深い智慧の光が宿っていた。この一見単純な問いは、周囲の弟子たちの好奇心を引き起こした。一人の若い修行者が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「なぜ仏陀はこんな明白な問いをするのでしょうか?ガンジス川の砂は砂に過ぎないのでは?」
その時、一人の長老が立ち上がり、敬意を表して仏陀に尋ねた。「世尊、あなたがガンジス川の砂を挙げたのは、特別な意味があるのでしょうか?私たちはこの比喩をどのように理解すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈しみを込めて群衆を見つめ、ゆっくりと言った。「善哉!善哉!ガンジス川の砂粒は無量無数であり、宇宙の現象や衆生と同じように数え切れないほどです。この比喩を挙げたのは、より深い真理を考えるように導くためです。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、あなたは私たちに、現象世界の事物は一見真実であるように見えるが、ガンジス川の砂粒のように触れることができるとしても、その本質はそうではないかもしれないと伝えたいのですか?」
仏陀は満足そうに頷いた。「その通りです、須菩提。あなたはこの問題の核心に触れました。では、さらに深く探求し、この比喩が私たちにどのような啓示をもたらすか見ていきましょう。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?一つのガンジス川にある砂のように、そのような数のガンジス川があり、それらのガンジス川にある砂の数ほどの仏世界があるとしたら、それは多いだろうか?」「とても多いです、世尊よ!」
仏陀は穏やかだが確固たる口調で尋ねた。「須菩提、もう少し考えてみましょう。もしも多くのガンジス川があり、それぞれの川の砂粒の数が、私たちが先ほど話したガンジス川と同じくらいであると仮定しましょう。これほど多くのガンジス川があり、それぞれの川の砂粒が一つの仏世界を表すとしたら、あなたはそのような仏世界が多いと思いますか?」
須菩提はこの問いを聞いて、思わず目を大きく開いた。彼は無数のガンジス川の光景を想像し、一粒一粒の砂が広大な仏国を表すことを考えた。この概念はあまりにも壮大で、彼の心はほとんど完全に理解することができなかった。しばらくの沈思の後、須菩提は深く息を吸い、敬意を表して答えた。
「非常に多いです、世尊!その数は想像を絶するほどです。」
仏陀は微笑みながら頷き、彼の視線が座っているすべての弟子を見渡した。皆は驚きと困惑の表情を浮かべ、この比喩に衝撃を受けていることが明らかだった。
一人の年長の比丘が我慢できずに尋ねた。「世尊、これほど多くの仏世界を私たちはどのように理解すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈しみを込めて答えた。「善哉!この比喩は、宇宙の広大さを理解するためのものです。各仏世界には無量の衆生が満ちており、これらの世界の数はガンジスの砂のように数え切れないのです。」
若い弟子たちは耳打ちし合い、低い声で話し合った。一人の新入門の弟子が我慢できずに師兄に尋ねた。「こんなに多くの世界があるのに、私たちはどうやってすべての衆生を救うことができるのでしょうか?これは永遠に終わらない任務のように見えます。」
その師兄は穏やかに答えた。「任務が困難だからこそ、私たちはより一層精進して修行すべきなのです。仏陀は私たちに広大な心を持つよう教えています。無量の衆生に直面しても、すべてを救うという大願を立てるべきです。」
須菩提は考え込んだように言った。「世尊、あなたは私たちに、世界と衆生がこれほど多いにもかかわらず、心が挫けるべきではなく、より大きな慈悲と智慧をもって向き合うべきだと言いたいのですか?」
仏陀は須菩提を賞賛して言った。「よく言った、須菩提。まさにその通りです。無量の世界と衆生は、菩薩の修行の広大な舞台なのです。」
その場にいる弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んだ。彼らは修行の道が長く困難であることを理解し始めたが、このような広大無辺の境地こそが、大乗仏法の精神を真に体現するものであることを悟った。
仏は須菩提に告げられた:「それほどの国土の中にいる衆生の、様々な種類の心を、如来はすべて知っている。なぜか?如来が説く諸々の心は、すべて心ではなく、これを心と名付けるのである。なぜならば、須菩提よ!過去の心は得ることができず、現在の心は得ることができず、未来の心は得ることができないからである。」
仏陀はゆっくりと口を開いた。「須菩提、この無量無数の国土の中で、すべての衆生の心の動きを、如来は悉く知っています。なぜだと思いますか?」
須菩提と他の弟子たちは息を呑み、仏陀の教えに集中して耳を傾けた。仏陀は続けて言った。「なぜなら、如来は言います。すべての心の動きは、実際には真実の心ではないが、なお心と呼ばれるのだと。」
この言葉を聞いて、その場にいる弟子たちは皆、困惑した表情を浮かべた。一人の若い比丘が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「それはどういう意味ですか?心がなぜ真実の心ではないのですか?」
その経験豊富な師兄が小さな声で説明した。「これこそが仏法の真髄なのです。仏陀は私たちを表面的な現象を超えて、より深い真理を見るよう導いているのです。」
仏陀は慈しみを込めて群衆を見渡し、さらに説明を続けた。「須菩提、よく考えてみてください。過去の心を見つけることができますか?」
須菩提は少し考えてから頭を振った。「できません、世尊。過去の心はすでに去ってしまいました。」
仏陀は頷いた。「では、現在の心は?」
須菩提は眉を寄せて考えた。「現在の心は……ここにあるようですが、掴もうとすると消えてしまいます。」
仏陀は微笑んだ。「その通りです。では、未来の心は?」
須菩提は悟ったように言った。「未来の心はまだ来ていないので、得ることはできません。」
仏陀は賞賛して言った。「善哉、須菩提!あなたは理解したようですね。過去、現在、未来の心はいずれも得ることができない。これが心の真の本性なのです。」
一人の長老が立ち上がり、敬意を表して尋ねた。「世尊、もし心が得られないのであれば、私たちが普段感じている思考や感情とは一体何なのでしょうか?」
仏陀は優しく答えた。「善哉!それらはすべて幻のような現象なのです。まるで川の波のようなものです。見かけは実在しているようですが、掴もうとすると指の間をすり抜けていきます。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、あなたは私たちに心の生滅の変化に執着せず、心の本質が空性であることを悟るよう教えているのですね?」
仏陀は満足そうに頷いた。「その通りです、須菩提。心の本質が得られないことを理解すれば、妄念を超越し、真の解脱を証することができるのです。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んだ。日頃当然のように感じていた心の動きが、実は幻影に過ぎないのかもしれないという認識に、彼らは衝撃を受けつつも、解脱への希望を感じた。
一人の若い弟子が小さな声で尋ねた。「では、私たちはどのように修行すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った。「心を観察しなさい。しかし執着してはいけません。心を明鏡のように澄み渡らせ、すべてを映し出しながらも何も残さないのです。これが解脱への道なのです。」
「須菩提よ!あなたはどう思うか?もし人が三千大千世界に七宝を満たして布施したならば、この人はこの因縁によって、多くの福を得るだろうか?」「はい、世尊よ!この人はこの因縁によって、とても多くの福を得ます。」
仏陀は穏やかに尋ねた。「須菩提、あなたはどう思いますか?もし誰かが七つの珍宝で三千大千世界を満たし、それをすべて施したとしたら、その人は多くの福報を得ると思いますか?」
須菩提はこの問いを聞いて目を輝かせた。以前の抽象的な概念に比べて、この例はより具体的で理解しやすいものだった。彼はじっくり考えた後、確信を持って答えた。「はい、世尊!この人はこのように寛大に施すことで、必ず大きな福報を得るでしょう。」
仏陀は微笑みながら頷いたが、彼の眼差しにはさらに深い意味が隠されているようだった。
その時、一人の若い弟子が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「三千大千世界はどれほどの大きさなのですか?七宝で満たすにはどれだけの財産が必要ですか?」
その先輩は小声で説明した。「三千大千世界は仏教において、無限に広がる世界系を表しており、無数の星系や世界を含んでいます。七宝とは通常、金、銀、琉璃、ガラス、シェル、赤珠、そして瑪瑙を指します。これらの珍宝でこのような広大な世界を満たすとなると、想像を絶する財産になりますね!」
若い弟子はこれを聞いて思わず息を呑んだ。「なんてことだ、それで得られる福報は無量無辺ではないですか?」
一人の長老が立ち上がり、敬意を表して仏陀に言った。「世尊、これほどの大きな施しから得られる福報は、必ずや信じられないものになるでしょう。しかし、あなたがこの例を挙げたのには、もっと深い意図があるように感じます。」
仏陀は長老を慈しみの眼差しで見つめ、賞賛して言った。「善哉!善哉!あなたは鋭いですね。確かに、この比喩にはさらに深い意味があります。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、あなたは私たちに、たとえこれほどの大きな施しでも、ある重要なことには及ばないかもしれないと伝えたいのですか?」
「須菩提よ!もし福徳に実があれば、如来は福徳が多いとは言わない。福徳がないからこそ、如来は福徳が多いと言うのである。」「須菩提よ!あなたはどう思うか?仏は具足した色身で見ることができるだろうか?」「いいえ、世尊よ!如来は色身で見るべきではありません。なぜでしょうか?如来が説く具足した色身は、すなわち具足した色身ではなく、これを具足した色身と名付けるのです。」
仏陀の視線はさらに深くなり、弟子たちをより深い真理の探求へと導いた。「須菩提、よく聞いてください。もし福徳が実在するものであれば、如来は多くの福徳を得ると言わないでしょう。福徳は本質的に空で自己性がないからこそ、如来は多くの福徳を得ると言うのです。」
この言葉が発せられると、その場にいる弟子たちは皆、困惑した表情を浮かべた。一人の若い比丘が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「これはどういう意味ですか?福徳は実在しないのですか?」
その経験豊富な師兄が小声で説明した。「仏陀は私たちに表象を超えて、万物の本質を理解するよう教えているのです。これは非常に深い道理であり、私たちがじっくり考える必要があります。」
仏陀は群衆の困惑した表情を見て、この道理をさらに明確にするために話題を変えることにした。彼は須菩提に向かって穏やかに尋ねた。「須菩提、あなたはどう思いますか?仏陀は完璧な色身で認識されるべきでしょうか?」
須菩提は少し考えた後、確信を持って答えた。「いいえ、世尊!如来は色身で認識されるべきではありません。」
仏陀は微笑みながら頷き、須菩提が続けるように促した。
須菩提は続けて説明した。「なぜなら、如来が言う完璧な色身は、実際には真の完璧な色身ではなく、私たちはただその名称で呼んでいるに過ぎないからです。」
仏陀は賞賛して言った。「よく言った、須菩提!あなたはこの深い道理を理解しました。」
一人の長老が立ち上がり、敬意を表して尋ねた。「世尊、あなたは私たちに、外見に執着してはいけない、たとえそれが仏陀の姿であってもそうだと言いたいのですか?」
仏陀は慈しみを込めて答えた。「その通りです。福徳も色身も、実在するもの、執着すべきものとは見なされるべきではありません。それらの本質は空性です。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、あなたは私たちに、表象を超えて、すべての現象の本質が空性であることを理解するよう教えているのですね?私たちが追求する福徳や、崇拝する仏陀の姿も含めて?」
仏陀は満足そうに頷いた。「非常に良い、須菩提。あなたはこの教えの核心に触れました。私たちは福徳や色身を含むあらゆる形に執着してはいけません。真の智慧は、それらの空性の本質を理解することにあります。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んだ。彼らは、真の修行は外面的な福徳や特定の姿を追求することではなく、すべての現象の本質を洞察することだと気づいた。
一人の若い弟子が小声で尋ねた。「では、私たちはどのように修行すればよいのでしょうか?福徳や仏陀の姿に執着できないのなら、私たちは何を追求すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った。「善哉!その問いは素晴らしい。修行の鍵は智慧を育むことにあり、すべての法の空性を理解することです。善行を積むことは重要ですが、これらの行為や結果に執着しないことがさらに重要です。同様に、仏陀を尊敬することは良いことですが、いかなる外見にも執着してはいけません。真の修行とは、心を明らかにし、自己の本来の姿を悟ることです。」
その場にいるすべての人は、仏陀の言葉によって深い衝撃を受け、まるで彼の言葉がより高い境地への扉を開いたかのように感じた。彼らは、この教えが彼らの修行に対する理解を覆すものであり、真に理解するためには長い時間の思考と実践が必要であることを認識した。
「須菩提よ!あなたはどう思うか?如来は具足した諸相で見ることができるだろうか?」「いいえ、世尊よ!如来は具足した諸相で見るべきではありません。なぜでしょうか?如来が説く諸相の具足は、すなわち具足ではなく、これを諸相の具足と名付けるのです。」
仏陀は再び須菩提に向き直り、穏やかに尋ねた。「須菩提、あなたはどう思いますか?如来はすべての相好を具えていることで認識されるべきでしょうか?」
須菩提はこの問いを聞いて、目に一筋の智慧の光を宿らせた。彼は深く息を吸い、確信を持って答えた。「いいえ、世尊!如来はすべての相好を具えていることで認識されるべきではありません。」
仏陀は微笑みながら頷き、須菩提が続けて説明するように促した。
須菩提は続けて言った。「なぜなら、如来が言うすべての相好は、実際には真の相好ではなく、私たちはただその名称で呼んでいるに過ぎないからです。」
この対話は弟子たちの好奇心を引き起こした。一人の若い比丘が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「相好とは何ですか?なぜ仏陀はすべての相好を具えていると言いながら、真の具足ではないと言うのですか?」
その経験豊富な師兄が小声で説明した。「相好は通常、仏陀の身に備わる三十二の殊勝な印と八十の随形好を指します。しかし、仏陀は私たちにこれらの外面的な特徴に執着しないよう教えているのです。」
一人の長老が立ち上がり、敬意を表して仏陀に言った。「世尊、あなたは私たちに、たとえ仏陀の殊勝な相好であっても、執着してはいけないと言いたいのですか?」
仏陀は長老を慈しみの眼差しで見つめ、賞賛して言った。「善哉!善哉!あなたは非常に正しく理解しています。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、私は理解しました。あなたは私たちに、真の仏陀は外面的な形や特徴で完全に認識されるものではないと教えたいのですね。これらの相好は確かに殊勝ですが、それに執着すると、仏陀の真の本質を理解することが妨げられるのです。」
仏陀は満足そうに頷いた。「よく言った、須菩提。あなたはこの問題の核心に触れました。相好は存在しますが、それらの本質も空性です。これらの相好に執着すると、形相の罠に陥り、如来の本質を真に理解することができなくなります。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んだ。彼らは、仏陀の教えを真に理解するためには、すべての外面的な形や概念を超越する必要があることに気づいた。
一人の若い弟子が小声で尋ねた。「では、私たちはどのように仏陀を理解し、親しむべきでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った。「善哉!その問いは素晴らしい。仏陀に親しむことは、外面的な相好を観察することではなく、仏法の精髄を理解し、実践することにあります。真の仏陀はあなたの心の中にあり、心が仏法と調和するとき、あなたは仏陀に最も近づくのです。」
その場にいるすべての人は、深い衝撃を受け、仏陀の言葉が新たな扉を開いたかのように感じた。彼らは、真の修行は外面的な形を崇拝することではなく、自己の心を見つめ直し、自性を悟ることであることを認識した。
「須菩提よ!あなたは如来がこのように考えていると思ってはならない:『私は法を説くべきである。』そのように考えてはならない。なぜか?もし人が『如来には説く法がある。』と言えば、それは仏を謗ることになり、私の説くところを理解できないからである。須菩提よ!法を説く者には、説くべき法がない。これを法を説くと名付けるのである。」その時、慧命須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!未来世に、この法を聞いて信心を生じる衆生はいるでしょうか?」
仏陀は須菩提をさらに深い真理の探求へと導いた。「須菩提、如来には『何か法を説こう』という心は決してありません。そのような考えを持ってはいけません。なぜなら、もし『如来は何かを説いた』と言う者があれば、それは如来を誹謗することになるからです。なぜなら、彼は私が言った意味を真に理解していないからです。須菩提、いわゆる説法とは、実際には説くべき法がないことこそが、真の説法なのです。」
この言葉が発せられると、その場にいる弟子たちは皆、困惑した表情を浮かべた。一人の若い比丘が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「これはどういう意味ですか?仏陀はずっと私たちに法を説いてきたのではないですか?」
その経験豊富な師兄が小声で説明した。「仏陀は私たちに言葉の表象を超えて、法の本質を理解するよう教えているのです。これは非常に深い道理であり、私たちがじっくり味わう必要があります。」
その時、須菩提は仏陀の言葉に深く心を動かされた。彼は敬意を表して仏陀に尋ねた。「世尊、未来の歳月に、このような深遠な法義を聞いても信心を生み出すことのできる衆生はいるでしょうか?」
須菩提の問いは、座っている多くの弟子たちの心の声を代弁するものだった。彼らも、このように難解な法義を未来の人々が本当に理解し、信じることができるのかと考えていたのである。
その時、一人の長老が我慢できずに言った。「世尊、須菩提尊者の問いは重要です。このような深奥な法義に、私たちこの説法を直接聞いている弟子たちでさえ戸惑うのに、未来の衆生がどうして理解できるでしょうか?」
仏陀は周囲を優しく見渡し、知恵と信心に満ちた眼差しで答えた。「善哉!善哉!その問いは素晴らしい。遥かな未来においても、善根を備えた衆生が、このような深遠な法義を理解し、信じることができるのだと言おう。」
弟子たちはこれを聞いて、驚きの表情を浮かべた。一人の若い弟子が我慢できずに尋ねた。「世尊、では私たちは未来の衆生がこの深い法義を理解するのを、どのように助けるべきでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った。「大切なのは、知恵と慈悲を持ってこの教えを伝承することです。未来の衆生は如来を直接拝見することはできませんが、善根と福徳を備えていれば、経典と善知識の指導によって、この深遠な道理を理解することができるのです。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、あなたの教えは本当に信じられないものです。説くべき法がないと言いながら、無量の衆生に信心を生み出すことができるとは。」
仏陀は満足そうに頷いた。「その通りです、須菩提。真の法は言葉にあるのではなく、実践と証悟にあるのです。未来の衆生は私を直接見ることはできませんが、真摯に修行さえすれば、この無言の教えの深意を体得することができるのです。」
その場にいるすべての人は、仏陀の知恵に深く打たれた。彼らは、仏陀の教えが現在の弟子たちだけでなく、未来無量劫の衆生のためでもあることを悟った。この認識は、彼らに仏法に対するより強い信心を与えた。
仏は言われた:「須菩提よ!彼らは衆生でもなく、衆生でないわけでもない。なぜか?須菩提よ!衆生、衆生と言うものは、如来が説くには衆生ではなく、これを衆生と名付けるのである。」須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!仏は無上正等正覚を得られましたが、それは何も得ていないということでしょうか?」
仏陀は須菩提を見つめ、ゆっくりと語り始めた。「須菩提、未来の法を聞く者たちは、衆生でもなく、非衆生でもないことを理解しなさい。なぜそう言うのか?須菩提、いわゆる衆生は如来が言うには、実際には真の衆生ではなく、私たちはただ『衆生』という名前で呼んでいるに過ぎないのです。」
この言葉が発せられると、座っている弟子たちは皆、困惑した表情を浮かべた。一人の若い比丘が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「これはどういう意味ですか?私たちは衆生ではないのですか?」
その経験豊富な師兄が小声で説明した。「仏陀は私たちに名相を超えて、衆生の本質を理解するよう教えているのです。これは非常に深い道理であり、私たちがじっくり考える必要があります。」
その時、須菩提は仏陀の言葉に何かを感じ取った。彼は深く感動し、突然より根本的な問いを思いついた。彼は敬意を表して仏陀に尋ねた。「世尊、あなたが無上正等正覚を証得したということは、実際には何も得ていないということなのでしょうか?」
仏陀は慈しみを込めて須菩提を見つめ、彼の目には賞賛と智慧の光が満ちていた。場は静まり返り、全員が仏陀の答えを待っていた。
その時、一人の長老が我慢できずに言った。「世尊、須菩提尊者の問いは非常に深いです。私たちは無上正等正覚を証得することが最高の達成だと思っていましたが、これは一種の執着なのでしょうか?」
仏陀は微笑みながら周囲を見渡し、慈悲と智慧に満ちた眼差しで答えた。「善哉!善哉!須菩提の問いは修行の核心に触れています。この問題の深い意味を一緒に探求しましょう。」
弟子たちはこれを聞いて期待の表情を浮かべた。一人の若い弟子が我慢できずに尋ねた。「世尊、もし無上正等正覚さえも無所得であるなら、私たちの修行の目的は何なのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った。「その問いは素晴らしい。修行の真の意味は、何かを得ることではなく、執着を手放し、自性を悟ることにあります。『得る』ということは、実は執着の表れなのです。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、あなたの言いたいことは、真の覚悟は得ることと得ないことの概念を超えているということですか?」
仏陀は満足そうに頷いた。「その通りです、須菩提。真の覚悟はすべての概念や分別を超えています。無上正等正覚は獲得できるものではなく、真実の本性を如実に知ることなのです。」
その場にいるすべての人は、仏陀の知恵に深く感動した。彼らは、真の修行は何かを得るためではなく、すべての執着を手放し、本来の清浄な心に戻るためであることに気づいた。
「そのとおりである、そのとおりである!須菩提よ!私は無上正等正覚において、わずかな法も得ることはない。これを無上正等正覚と名付けるのである。」
仏陀は須菩提を見つめ、優しくも確固とした口調で答えた。「その通りです、その通りです!須菩提、あなたの言うとおりです。私が無上正等正覚を証得する過程で、実際に得たものは何もありませんでした。得るべきものがないからこそ、無上正等正覚と呼ばれるのです。」
一人の若い比丘が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「これはどういう意味ですか?仏陀は成仏されたのに、何も得たものがないと言うのですか?」
その経験豊富な師兄が小声で説明した。「仏陀は私たちに最も深遠な知恵を教えているのです。『無所得』こそが最高の悟りの境地なのです。」
その時、一人の長老が立ち上がり、敬意を表して仏陀に尋ねた。「世尊、無上正等正覚を証得することが無所得であるのなら、私たちまだ修行の道を歩んでいる者は、どのように理解し、実践すべきでしょうか?」
仏陀は長老を慈しみの眼差しで見つめ、座っている弟子一人一人を見渡した。「善哉!その問いは素晴らしい。『無所得』とは、何もないということではなく、得失の概念を超えているということです。あなた方が悟りを得ようとする執着を手放せば、かえって真の悟りに近づくのです。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、あなたの言いたいことは、私たちは最高の無上正等正覚を含む、いかなる修行の成果にも執着してはいけないということですか?」
仏陀は満足そうに頷いた。「その通りです、須菩提。真の修行とは、すべての執着を手放すことです。修行そのものへの執着さえも。あなたが完全に手放せば、無上正等正覚は自然に現れるのです。」
その場にいる弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んだ。彼らは、自分の修行に対する理解があまりにも狭く、ある境地や能力を得ることに執着していたことに気づいた。
一人の若い弟子が小声で尋ねた。「では、私たちの日々の修行にも意味があるのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った。「もちろんあります。日々の修行こそが、あなた方を執着から徐々に解放しているのです。大切なのは正念を保つことですが、結果に執着してはいけません。」
別の弟子が尋ねた。「世尊、この『無所得』の境地は私たちにとって遠すぎるように思います。日常生活の中でこの知恵をどのように実践すればよいのでしょうか?」
仏陀は微笑みながら答えた。「素晴らしい問いです。小さなことから始めることができます。行動する時は現在に集中しつつ、結果に執着しないでください。他者を助ける時は、見返りを求めずに。徐々に、あなた方は『無所得』の知恵を体得できるでしょう。」
弟子たちはこれを聞いて、深い衝撃を受けた。彼らは、仏陀が教えているのが修行の方法だけでなく、生き方そのものであり、世界を見る全く新しい視点であることに気づいた。
仏陀は周囲を見渡し、弟子たちの目に理解と困惑が交錯する光を見た。この教えを真に悟るには長い思考と実践が必要だと知っていた。しかし、弟子たちが正念を保ち続ければ、いつかは『無所得』の深義を完全に理解できるだろうと信じていた。
「さらに、須菩提よ!この法は平等であり、高下がない。これを無上正等正覚と名付ける。我もなく、人もなく、衆生もなく、寿者もなく、一切の善法を修めれば、すなわち無上正等正覚を得る。須菩提よ!善法と言うものは、如来が説くには善法ではなく、これを善法と名付けるのである。」
仏陀は須菩提と座っている弟子たちをさらに深い真理の探求へと導いた。「また、須菩提、この法は平等であり、高下の別はないことを理解しなければならない。これこそが真の無上正等正覚なのである。行者が無我、無人、無衆生、無寿者の心で一切の善法を修習するとき、はじめて無上正等正覚を証得することができるのだ。」
仏陀は少し間を置き、弟子たちにこの深遠な道理を消化する時間を与えた。そして、さらに付け加えた。「須菩提、私が言った善法について、如来は実際には真の善法ではないと考えている。私たちは単に『善法』という名称で呼んでいるに過ぎないのだ。」
この言葉が発せられると、法会の場は再び沈思の中に包まれた。弟子たちは顔を見合わせ、衝撃を受けつつも困惑した表情を浮かべていた。一人の若い比丘が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「これはどういう意味ですか?善法が善法ではないというのは、どのように理解すればよいのでしょうか?」
その経験豊富な師兄が小声で説明した。「仏陀は私たちに善悪の分別心を超越するよう教えているのです。真の善とは、善悪の対立を超えたものなのです。」
その時、一人の長老が立ち上がり、敬意を表して仏陀に尋ねた。「世尊、法は平等で高下の別はないとおっしゃいましたが、私たちの修行における次第や段階はどのように理解すればよいのでしょうか?」
仏陀は長老を慈しみの眼差しで見つめ、座っている弟子一人一人を見渡した。「善哉!その問いは素晴らしい。修行の次第は導きのためのものですが、究極的には、すべての法は平等なのです。大切なのは、段階への執着を手放すことです。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、あなたのおっしゃるのは、私たちが修行する際に無我、無人、無衆生、無寿者の心で修習すれば、法の平等性を真に体得できるということですか?」
仏陀は満足そうに頷いた。「その通りです、須菩提。自我への執着を完全に手放し、自他、衆生、寿者を区別しなくなれば、法の真の平等性を体得できるのです。」
一人の若い弟子が小声で尋ねた。「世尊、善法が真の善法ではないのなら、私たちはなぜ善法を修めるべきなのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った。「もちろん修めるべきです。大切なのは、執着のない心で善法を修めることです。善悪の概念にとらわれるのではなく、それらを超越することです。」
別の弟子が尋ねた。「世尊、この平等無分別の知恵は私たちにとって余りにも深遠すぎるように思います。日常生活の中でどのように実践すればよいのでしょうか?」
仏陀は微笑みながら答えた。「素晴らしい問いです。すべての衆生を平等に扱うことから始められます。親疎貴賤を分けることなく、すべてを平等の心で見つめてください。徐々に、法の平等性を体得できるでしょう。」
弟子たちはこれを聞いて、深い衝撃を受けた。彼らは、仏陀が教えているのが修行の方法だけでなく、二元性を超越した知恵であり、世界を見る全く新しい視点であることに気づいた。
仏陀は周囲を見渡し、弟子たちの目に理解と困惑が交錯する光を見た。この教えを真に悟るには長い思考と実践が必要だと知っていた。しかし、弟子たちが無我の心で精進し続ければ、いつかは法の平等性を完全に体得できるだろうと信じていた。
「須菩提よ!もし三千大千世界にあるすべての須弥山王のような七宝の山があり、人がそれを持って布施したとしても、もし人がこの般若波羅蜜経から、わずか四句の偈でも受持し、他人のために説くならば、前者の福徳の百分の一にも及ばず、百千万億分の一にも、乃至算数や譬喩でも及ぶことができない。」
仏陀は須菩提と座っている弟子たちを導き、般若の知恵の卓越性を生き生きとした比喩で説明し始めた。「須菩提、もし誰かが三千大千世界にある須弥山王すべてを七宝に変え、それを布施したとしたら、これほど大きな福徳はないでしょう!」
仏陀は少し間を置き、弟子たちにその光景を想像する時間を与えた。法会の場は沈思に包まれ、弟子たちは計り知れない宝物を想像しようと努めていた。
そして仏陀は続けた。「しかし、もし誰かが『般若波羅蜜経』を受持し、たとえその中の四句偈のみであっても、他者に解説したとしたら、その人の得る福徳は、先ほどの七宝の布施の福徳を遥かに超えるのです。」
この言葉が発せられると、法会の場は一気に沸き立った。弟子たちは顔を見合わせ、驚きと信じがたさの表情を浮かべていた。
一人の若い比丘が我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた。「それはありえません!三千大千世界の宝物よりも、わずかな経文のほうが価値があるというのですか?」
その経験豊富な師兄が小声で説明した。「仏陀は知恵の重要性を強調しているのです。物質的な布施は尊いことですが、知恵の伝播のほうがさらに尊いのです。」
その時、一人の長老が立ち上がり、敬意を表して仏陀に尋ねた。「世尊、経文を受持し、他者に解説することの福徳がこれほど勝れているのなら、私たちはどのように正しく理解し、実践すべきでしょうか?」
仏陀は長老を慈しみの眼差しで見つめ、座っている弟子一人一人を見渡した。「善哉!その問いは素晴らしい。鍵は、経文の内容を真に理解し、生活の中で実践することです。経文を暗唱するだけでは不十分です。その中に秘められた知恵を悟ることが大切なのです。」
須菩提は考え込んで言った。「世尊、あなたのおっしゃるのは、知恵を伝える功徳は世俗的な基準では計れないということですね?」
仏陀は満足そうに頷いた。「その通りです、須菩提。知恵は無数の衆生を苦しみから解放することができる。その功徳は物質では計れないのです。」
一人の若い弟子が小声で尋ねた。「世尊、では私たちはどのようにしてこの知恵を学び、伝えるべきなのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った。「まず、経文の意味を深く理解しなければなりません。そして、その教えを日々の生活の中で実践しなければなりません。最後に、慈悲の心を持ってその知恵を他者と分かち合ってください。そうすれば、あなた方は計り知れない功徳を積むことができるのです。」
別の弟子が尋ねた。「世尊、もし今の私たちがまだ経文の深意を完全に理解できないとしたら、どうすればよいのでしょうか?」
仏陀は微笑みながら答えた。「落胆してはいけません。理解は漸進的な過程なのです。大切なのは、謙虚で求道的な心を保つことです。今はわずかしか理解できなくても、努力を続ければいつかは完全に悟れるはずです。」
弟子たちはこれを聞いて、深い衝撃と鼓舞を感じた。彼らは、仏陀が教えているのが修行の方法だけでなく、無量の衆生を利益する知恵そのものであることに気づいた。
仏陀は周囲を見渡し、弟子たちの目に理解と決意の光を見た。この教えが、一人一人の心の中に知恵の種を蒔いたことを知っていた。
その日の説法は、「知恵の伝播」と「般若の卓越性」をさらに深化させ、全員の心に深く刻まれた。弟子たちは、真の富は物質の蓄積ではなく、知恵の開悟と伝播であることを悟った。彼らは、仏陀のように、知恵の光で衆生の道を照らすべく、さらなる努力を誓ったのである。
「須菩提よ!あなたはどう思うか?あなたたちは如来がこのように考えていると思ってはならない:『私は衆生を度すべきである。』須菩提よ!そのように考えてはならない。なぜか?実際には如来が度す衆生はいない。もし如来が度す衆生がいるならば、如来には我、人、衆生、寿者があることになる。須菩提よ!如来が説くには『我があると言う者は、すなわち我がない。』しかし凡夫の人は我があると思う。須菩提よ!凡夫と言うものは、如来が説くには凡夫ではない。」
仏陀は優しいが堅固な口調で言った:「須菩提よ、如来の心の中で『私は衆生を度化しなければならない』と思っているとは思わないでくれ。須菩提よ、そのような考えを持ってはいけない。なぜかわかるか?」
仏陀は続けて言った:「実際のところ、如来が度化するべき衆生というものは存在しないからだ。もし如来が度化すべき衆生がいるとすれば、如来には我・人・衆生・寿者の概念があるということになる。」
この言葉が放たれると、法会の場は沈思に包まれた。弟子たちは顔を見合わせ、困惑と驚きの入り混じった表情を浮かべていた。
ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小さな声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?仏陀は私たちを度化し続けてこられたのではないですか?」
経験豊富な先輩は静かに説明した:「仏陀は、度化する者と度化される者の区別心を超越することを教えておられるのです。これは非常に深遠な道理で、私たちが熟考する必要があります。」
仏陀は困惑した表情の群衆を見渡し、さらに説明を続けた:「須菩提よ、如来は『我有者は非有なり』と説く。しかし凡夫は我有ありと認める。須菩提よ、所謂の凡夫とは、如来は真の凡夫ではないと説くのである。」
そこで、ある長老が立ち上がり、恭しく仏陀に尋ねた:「世尊、あなたのお言葉は余りにも深遠です。私たちはどのように理解すべきでしょうか?特に衆生度化の部分については、もし度化すべき衆生がいないとすれば、私たちの修行の目的は何なのでしょうか?」
仏陀は長老を慈しみの眼差しで見つめ、座っている弟子一人一人を見渡した:「善哉!この問いは良く問うた。私たちは自己の達成感を満たすためではなく、無我の大悲心から修行し度化するのである。『私が衆生を度化している』という念を完全に捨て去れば、かえって他者を助けることができるのだ。」
須菩提は深く考え込むように言った:「世尊、あなたのおっしゃるのは、真の度化とは度化する者と度化される者の身分にとらわれないことであり、自然発生的な行為なのでしょうか?」
仏陀は頷いて喜びを表した:「その通りだ、須菩提。私の概念を完全に捨て去れば、私たちの行為は自然と衆生の利益となり、『私が善行を行っている』という執着は生じないのだ。」
ある若い弟子が小さな声で尋ねた:「世尊、では私たちが普段言う凡夫とはどのように理解すべきでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った:「所謂の凡夫とは、便宜的な呼称に過ぎない。実際のところ、誰もが仏性を具え、成仏の可能性を秘めているのだ。凡夫の身分に執着すれば、かえって自分の可能性を制限してしまうのである。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、自分自身、衆生、度化に対する長年の理解に挑戦するものとして、仏陀の教えを認識し始めていた。
仏陀は四方を見渡し、弟子たちの瞳に理解と困惑が交錯する光を見た。この教えを真に悟るには、長い思考と実践が必要であることを、仏陀は知っていた。しかし、もし弟子たちが開かれた謙虚な心を保ち続けるなら、いつかはこの深遠な道理を完全に理解するに違いないと、仏陀は信じていた。
その日の説法は更に深化し、「無我」「度而無度」の智慧が、一人一人の心に深く種をまく結果となった。それは未来の修行の中で、ゆっくりと芽吹き、成長していくのを待っている。弟子たちは、真の修行とは、ある身分や行為に執着することではなく、一切の分別を超越し、本来の状態に還ることだと悟ったのである。
「須菩提よ!あなたはどう思うか?三十二相で如来を観ることができるだろうか?」須菩提は言った:「はい、そうです!三十二相で如来を観ることができます。」
仏陀は穏やかに尋ねた:「須菩提よ、君はどう思う?私たちは三十二相を通じて如来を観察することができるだろうか?」
この質問が出ると、法会の場は一瞬静まり返った。弟子たちは、仏陀の三十二相が広く知られた殊勝な印であり、各々がその荘厳な特徴に感嘆したことを知っていた。
須菩提は深く息を吸い込み、この質問の背後にはより深い意味があるかもしれないと感じた。しかし、彼の理解と過去の教えに基づいて、彼はしっかりと答えた:「はい、はい!私たちは確かに三十二相を通じて如来を観察することができます。」
ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「三十二相は如来を観察する最良の方法ではないですか?なぜ仏陀はわざわざこの質問をされたのでしょうか?」
その時、一人の長老が立ち上がり、敬意を表して仏陀に尋ねた:「世尊、三十二相は確かに如来の殊勝な印ですが、あなたがこの質問を特に提起されたのは、何か深い意図があるのでしょうか?」
仏陀は長老を慈しみの眼差しで見つめ、彼の目には智慧の光が輝いていた:「善哉!あなたの質問は良い問いです。この問題をさらに探求し、より深い理解を得られるか見てみましょう。」
須菩提もこの時、自分が仏陀の質問に対してあまりにも軽率に答えたかもしれないと気づいた。彼は謙虚に言った:「世尊、私の先ほどの答えは不十分だったかもしれません。どうか私たちにさらに教えを賜りますように。」
仏陀は微笑みながら頷いた:「心配しなくて良い、須菩提。あなたの答えは多くの人々の考えを反映している。共にこの問題を深く考えてみましょう。」
弟子たちは息を呑んで静まり返り、仏陀の次の教えを期待した。彼らは、仏陀が表面的な理解を超えて、より深い智慧の境地へと導いていることを感じていた。
仏は言われた:「須菩提よ!もし三十二相で如来を観るならば、転輪聖王も如来ということになる。」須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!私が仏の説かれた意味を理解するところでは、三十二相で如来を観るべきではありません。」
仏陀は須菩提を見つめ、穏やかだが堅固な口調で言った:「須菩提よ、もし三十二相を通じて如来を観察できるということなら、転輪聖王もまた如来である。」
この言葉が発せられると、法会の場は一瞬静まり返った。弟子たちは顔を見合わせ、困惑と驚きの表情を浮かべていた。
ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?転輪聖王と如来にはどんな関係があるのですか?」
経験豊富な先輩は静かに説明した:「転輪聖王も三十二相を持っているが、彼は仏陀ではない。仏陀は私たちに、外面的な特徴だけで如来を識別してはいけないと警告しているのかもしれない。」
その時、須菩提は何かに気づいたようだった。彼は敬意を表して仏陀に告げた:「世尊、私があなたの教えを理解した限りでは、私たちは三十二相だけで如来を観察すべきではありません。」
須菩提の言葉は微かなざわめきを引き起こした。いくつかの弟子は頷いて賛同し、他の者はさらに困惑した表情を浮かべた。
一人の長老が立ち上がり、敬意を表して仏陀に尋ねた:「世尊、もし三十二相を通じて如来を観察できないのなら、私たちはどのように如来を理解し、近づくべきでしょうか?」
仏陀は長老を慈しみの眼差しで見つめ、座っている弟子一人一人を見渡した:「善哉!この問いは良い問いです。如来を観察することは、外見の形相にとどまるべきではなく、如来の智慧と慈悲を深く理解することが重要です。」
須菩提は考え込むように言った:「世尊、あなたの言うことは、真の如来は形相を超越しており、私たちは内面的な資質から如来を理解すべきだということですね?」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ、須菩提。如来の本質は外面的な相好にはなく、内面的な覚悟と智慧にあるのだ。」
ある若い弟子が小声で尋ねた:「世尊、では私たちが普段目にする三十二相はどのように理解すべきでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った:「三十二相は如来の福徳と智慧の外面的な現れであるが、これに執着してはいけない。重要なのは、これらの相好の背後にある深い意味を理解することだ。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、過去において如来の外面的なイメージに過度に執着していたことを認識し、より重要な内面的な資質を見落としていたことに気づき始めた。
仏陀は四方を見渡し、弟子たちの目に理解と困惑が交錯する光を見た。彼は、この教えが彼らの長年の如来に対する認識に挑戦していることを知っていたが、それこそが彼らをより高い智慧へと導く必然の道であると信じていた。
その日の説法は再び深化し、「形相を超越する」智慧が一人一人の心に深く種をまく結果となった。弟子たちは、真に如来を理解することは外面的な相好にあるのではなく、如来の智慧と慈悲を体得することにあると悟った。彼らは今後の修行において、表面的なイメージに執着するのではなく、内面的な修養により重点を置くことを決意した。
その時、世尊は偈を説かれた:「もし色で我を見、音声で我を求めるならば、その人は邪道を行き、如来を見ることはできない。」
その時、仏陀の目には智慧の光が輝き、柔らかくも堅固な声で、ゆっくりと詩を吟じた:
「色を以て我を見、音声を以て我を求むる者は、邪道を行い、如来を見ること能わず。」
ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「この詩はどういう意味ですか?なぜ色で仏を見たり、音声で仏を求めたりする人は邪道を行くと言われるのでしょうか?」
経験豊富な先輩は静かに説明した:「仏陀は私たちに、外面的な形や声に執着してはいけないと教えている。真の如来は私たちが目で見ることや耳で聞くことができるものではなく、心で感じ取るべきものなのだ。」
その時、一人の長老が立ち上がり、敬意を表して仏陀に尋ねた:「世尊、あなたの詩は深遠で理解が難しいです。私たちが普段仏陀の荘厳な姿を見たり、教えを聞いたりすることは、間違っているのでしょうか?」
仏陀は長老を慈しみの眼差しで見つめ、座っている弟子一人一人を見渡した:「善哉!あなたの質問は良い問いです。私が言いたいのは、私の形を見たり声を聞いたりすることが間違いだということではない。重要なのは、これらの外面的な現象に執着せず、それを通じてより深い真理を理解することだ。」
須菩提は考え込むように言った:「世尊、あなたの言うことは、真の如来は形や声を超越しており、私たちは智慧の目で如来の本質を観照すべきだということですね?」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ、須菩提。如来の真実の本質は目で見ることや耳で聞くことができるものではなく、智慧をもって体得するべきものなのだ。」
ある若い弟子が小声で尋ねた:「世尊、では私たちはどのように正しく如来に近づき、理解すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く言った:「如来に近づくためには、私の教えを理解し実践することが重要だ。無我や空性の道理を真に理解し、日常生活の中で慈悲と智慧を実践する時、あなたたちは真に如来を見ることができるのだ。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、過去において仏陀の外面的なイメージや言葉に過度に執着していたことを認識し、より重要な内面的な修行を見落としていたことに気づき始めた。
仏陀は四方を見渡し、弟子たちの目に理解と困惑が交錯する光を見た。彼は、この教えが彼らの長年の如来に対する認識に挑戦していることを知っていたが、それこそが彼らをより高い智慧へと導く必然の道であると信じていた。
その日の説法は再び深化し、「形相と声を超越する」智慧が一人一人の心に深く種をまく結果となった。弟子たちは、真に如来を理解することは外面的な形や言葉にあるのではなく、内面的な覚悟と実践にあると悟った。彼らは今後の修行において、表面的な現象に執着するのではなく、内面的な修養と仏法の真実な体得により重点を置くことを決意した。
この短くも深遠な詩は、弟子たちの如来に対する理解を変えただけでなく、彼らに新たな修行の視点を開き、仏法の奥義をより深く探求し、真の解脱の道へと導くこととなった。
「須菩提よ!あなたがこのように考えてはならない:『如来は具足した相によって、無上正等正覚を得たのではない。』須菩提よ!そのように考えてはならない:如来は具足した相によって、無上正等正覚を得たのではない。」
仏陀の優しい視線が須菩提に注がれ、仏陀は優しく呼びかけた:「須菩提よ!」須菩提はすぐに頭を上げ、恭しく仏陀を見つめた。
仏陀は続けて言った:「おそらく君は、『如来は円満な相好を具えているからこそ、無上正等覚を証したのではない』と考えるかもしれない。しかし、須菩提よ、そうは考えるべきではない。如来は円満な相好を具えているからこそ、無上正等覚を証したのだ。」
これを聞いて、場にいる弟子たちは皆、困惑した表情を浮かべた。ある若い比丘は我慢できずに小声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?仏陀は今しがた の教えを否定しているようですが。」
隣の長老が静かに説明した:「仏陀は、私たちが別の極端に陥らないよう導いておられるのです。私たちは相好に執着してはいけませんが、相好の意義を完全に否定してもいけないのです。」
須菩提は考え込むように頷き、そして敬意を込めて仏陀に尋ねた:「世尊、私はいくらか混乱しています。先ほど、色相や音声に執着してはいけないと教えられましたが、今度は如来が相好を具えているからこそ覚りを開いたのだと言われます。これらは矛盾しているようですが、お教えください。」
仏陀は優しく微笑み、言った:「善哉、須菩提!良い質問だ。もう少し詳しく説明しよう。」
仏陀は四方を見渡し、全ての弟子が熱心に聞いていることを確認すると、さらに話を続けた:「相好は確かに存在する。それは仏陀が長年修行を積んだ結果現れたものだ。しかし重要なのは、これらの外面的特徴に執着してはいけないし、その存在と意義を完全に否定してもいけないということだ。真の智慧とは、相好の本質が空性であることを理解し、執着も否定もしないことなのだ。」
ある年長の比丘が悟ったように言った:「なるほど。仏陀は中道の智慧を教えておられるのですね。相好に執着しないし、完全に否定もしない。ただ、智慧によって相好の本質を如実に理解するのです。」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ。大切なのは、如来の相好を含むあらゆる現象を、智慧の目で見ることなのだ。執着も否定もせず、ただ如実に知ることが肝要なのだ。」
弟子たちはこの説明を聞いて、次第に悟りを開いたような表情になっていった。彼らは、仏法の精髄が二元性を超越し、中道の境地に達することにあることを理解し始めたのだ。
「須菩提よ!あなたがこのように考えてはならない:『無上正等正覚を発する者は、諸法が断滅すると説く。』そのように考えてはならない。なぜか?無上正等正覚を発する者は、法について断滅の相を説かないからである。」
仏陀は須菩提を見つめ、ゆっくりと口を開いた:「須菩提よ!」須菩提はすぐに頭を上げ、恭しく仏陀を見つめた。
仏陀は続けて言った:「おそらく君は、『無上正等覚を求める者は、一切の法が断滅すると説くであろう』と考えるかもしれない。しかし、須菩提よ、そうは考えるべきではない。なぜなら、真に無上正等覚を求める者は、法に断滅相あるとは説かないからだ。」
これを聞いて、座っている弟子たちは顔を見合わせ、幾分か困惑した様子だった。ある若い比丘は我慢できずに小声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?なぜ覚りを求める者は法に断滅相あるとは言わないのですか?」
ある年長の比丘が優しく説明した:「仏陀は、究極の覚りを求める者は断見や常見の極端に陥らないと教えておられるのです。」
須菩提は考え込むように、そして敬意を込めて仏陀に尋ねた:「世尊、あなたの教えは深遠で難解です。なぜ無上正等覚を求める者は法に断滅相あるとは言わないのか、もっと詳しく説明していただけますか?」
仏陀は優しく微笑み、言った:「善哉、須菩提!良い質問だ。みんなに詳しく説明しよう。」
仏陀は四方を見渡し、全ての弟子が熱心に聞いていることを確認すると、さらに話を続けた:「仏法を真に理解する者は、物事の永遠の存在に執着したり、完全に消滅すると考えたりしない。彼らは諸法の本質が空性であることを理解するが、それは一切が断滅するということではない。むしろ、一切の現象は因縁と和合によって生起し、相互依存し、絶え間なく変化していくのだと理解するのだ。」
ある熟練した弟子が悟ったように言った:「なるほど。仏陀は中道の智慧を教えておられるのですね。物事の永遠の存在に執着したり、一切が断滅すると考えたりする極端な見方を避けるのです。」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ。無上正等覚を求める者は、諸法の真相を理解する。彼らが見るのは、諸法の縁起性空であって、断滅ではないのだ。」
そこで、ある若い比丘が慎重に尋ねた:「世尊、では私たちはどのように諸法の本質を正しく理解すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く答えた:「諸法の本質を理解するには、修行を通して自ら体験することが必要だ。世間のあらゆるものを観察すれば、一切が絶え間なく変化し、永遠不変の実体はないことがわかるだろう。しかし、この変化は断滅を意味するのではなく、永遠の流転なのだ。この点を理解すれば、諸法の真相に近づくことができるのだ。」
「須菩提よ!もし菩薩がガンジス川の砂ほどの世界に七宝を満たして布施したとしても、もしまた、ある人がすべての法に我がないことを知り、忍を成就するならば、この菩薩は前の菩薩の得た功徳に勝る。須菩提よ!諸々の菩薩は福徳を受けないからである。」
仏陀の声は優しくも堅固で、深奥な教えを続けた:「須菩提よ!」仏陀が呼びかけると、須菩提はすぐに仏陀に注目した。
仏陀は言葉を続けた:「もし菩薩が、恒河の砂粒ほどの世界を満たすほどの七宝を布施したとしよう。しかし、もし別の人が、一切の法は無我であるという理を悟り、その悟りの中で忍辱を成就したとしたら、その人の功徳の方が、先の七宝を布施した菩薩のそれよりもはるかに勝るのである。須菩提よ、それは真の菩薩は福徳に執着しないからだ。」
これを聞いて、禅堂全体が静まり返った。弟子たちは顔を見合わせ、疑問と驚きに満ちた表情を浮かべた。
ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?なぜ無我を理解することの方が、多くの宝物を布施するよりも功徳が大きいのですか?」
経験豊富な先輩が静かに説明した:「仏陀は、内なる智慧の方が外なる富よりも尊いことを教えておられるのです。」
須菩提は考え込むように、そして敬意を込めて仏陀に尋ねた:「世尊、あなたの教えは驚くべきものです。なぜ無我を理解し忍辱を成就することが、七宝を布施するよりも功徳が大きいのか、もっと詳しく説明していただけますか?また、菩薩が福徳を受けないとはどういう意味ですか?」
仏陀は優しく微笑み、言った:「善哉、須菩提!良い質問だ。詳しく説明しよう。」
仏陀は四方を見渡し、全ての弟子が熱心に聞いていることを確認すると、さらに話を続けた:「七宝を布施することは善行ではあるが、それでも世間法に属し、功徳や報酬に執着させられる可能性がある。しかし、一切の法が無我であることを理解し、その上に立って忍辱を修めるのは、本心に直接触れ、真理を悟る修行なのだ。この深い智慧と修行は、我執を根本から断ち切り、一切の煩悩から解放するのである。」
ある年長の比丘が悟ったように言った:「なるほど。仏陀は、真の功徳は外面的な行為にあるのではなく、内なる覚醒にあると教えておられるのですね。」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ。菩薩が福徳を受けないとは、真の菩薩は自らの善行や得た功徳に執着しないということだ。彼らは福徳を求めて善を行うのではなく、慈悲の自然の発露なのだ。」
そこで、ある若い弟子が慎重に尋ねた:「世尊、では私たちの日々の布施や善行にも意味があるのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く答えた:「もちろんある。布施と善行は修行の基礎であり、慈悲の心を養い、心を浄化する。重要なのは、善を行う際に果報に執着せず、無我の智慧によって行為を導いていくことだ。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、真の修行とは外面的な行為だけではなく、内なる変容と智慧の成長にあることを認識し始めていた。
須菩提は仏に申し上げた:「世尊よ!どうして菩薩は福徳を受けないのでしょうか?」「須菩提よ!菩薩の作る福徳は、貪着すべきではない。それゆえに福徳を受けないと言うのである。」
この時、須菩提は求道の光を瞳に宿し、敬意を込めて仏陀に尋ねた:「世尊!先ほど、菩薩は福徳を受けないとおっしゃいましたが、これはいったい何を意味するのでしょうか?菩薩はなぜ福徳を受け取らないのですか?」
仏陀は須菩提を慈しみの眼差しで見つめ、知恵と忍耐に満ちた目で答えた:「須菩提よ、菩薩が行う一切の善行と功徳に対して、貪着の心を持ってはいけない。それゆえに、菩薩は福徳を受け取らないと言うのだ。」
これを聞いて、座っている弟子たちは皆、考え込むような表情になった。ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?なぜ自分の功徳に貪着してはいけないのですか?」
経験豊富な先輩が静かに説明した:「仏陀は、善を行う際に結果や報酬に執着してはいけないと教えておられるのです。」
須菩提は考え込むように頷き、再び仏陀に尋ねた:「世尊、あなたの教えは深く考えさせられます。なぜ菩薩は自らの功徳に貪着してはいけないのか、もっと詳しく説明していただけますか?これは、私たちが普段理解している功徳を積むことと、どう違うのでしょうか?」
仏陀は優しく微笑み、言った:「善哉、須菩提!良い質問だ。詳しく説明しよう。」
仏陀は四方を見渡し、全ての弟子が熱心に聞いていることを確認すると、さらに話を続けた:「菩薩が善を行い、功徳を積むのは、純粋な慈悲の心と利他の願いからであって、自らの利益や名声を得るためではない。もし自らの功徳に執着すれば、我執が育ち、修行の障害となってしまう。真の菩薩は、善を行うとき、まるで左手が右手を助けるように自然にそうするのであって、決して報酬を求めないのだ。」
ある年長の比丘が悟ったように言った:「なるほど。仏陀は、善を行う真髄は個人の功徳を積むことではなく、無我の智慧と無限の慈悲にあると教えておられるのですね。」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ。私たちが功徳に執着しなくなれば、かえって大きな福徳を得られるのだ。これが所謂『福徳を受け取らない』ということであり、実際には更に高い修行の境地なのである。」
そこで、ある若い弟子が慎重に尋ねた:「世尊、では私たちは日常生活の中で、どのように功徳に貪着しない態度を実践すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く答えた:「日々の生活の中で、常に自分の心を観察することが大切だ。善を行う際は、純粋な動機を保ち、報酬を求めず、賞賛を期待してはいけない。同時に、自問自答することも大切だ:私は衆生のために善を行っているのか、それとも自分の虚栄心を満たすためなのか、と。そうすれば、やがて善を行うことが自然の状態となり、功徳の得失に執着しなくなるはずだ。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、真の修行とは外面的な行為だけではなく、内なる変容と自我を超越することにあることを認識し始めていた。
「須菩提よ!もし人が『如来は来たり去ったり、座ったり臥したりする。』と言うならば、その人は私の説く意味を理解していない。なぜか?如来とは、来るところもなく、去るところもない。それゆえに如来と名付けるのである。」
仏陀は深奥な教えを続けた:「須菩提よ!」仏陀が呼びかけると、須菩提はすぐに仏陀に集中して見つめた。
仏陀は続けて言った:「もし誰かが、『如来には来ることも去ることもあり、座ることも横になることもある』と言ったら、その人は私が言う真の意味を理解していないということだ。なぜなら、如来はどこからも来ず、どこにも行かないからこそ如来と呼ばれるのだ。」
この言葉を聞いて、禅堂全体が静まり返った。弟子たちは顔を見合わせ、困惑と驚きに満ちた表情を浮かべた。
ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?私たちは毎日仏陀が歩いたり、座ったり、休んだりするのを見ているのではないですか?」
経験豊富な先輩は静かに説明した:「仏陀は、私たちの日常的な現象を超えた、より深い真理について語っておられるのだ。」
須菩提は深く息を吸い込み、敬意を込めて仏陀に尋ねた:「世尊、あなたの教えは理解しがたいです。なぜ如来はどこからも来ず、どこにも行かないと言われるのか、私たちが日常で見るあなたとは何が違うのか、さらに詳しく教えていただけますか?」
仏陀は慈しみを込めて微笑み、言った:「善哉、須菩提!良い質問だ。詳しく説明しよう。」
仏陀は周囲を見渡し、全ての弟子が熱心に聞いていることを確認すると、さらに話を続けた:「君たちが見る私、歩くこと、座ること、休むことは、ただ如来の応化身に過ぎない。真の如来は、時空を超え、不生不滅の法身である。この法身は来去や生滅の制約を受けず、どこにでも存在するが、どの場所にも執着しないのだ。」
ある年長の比丘が悟ったように言った:「なるほど。仏陀は、表面的な現象を超えて、より深い実相を理解することを教えておられるのですね。」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ。如来の本質は不生不滅であり、どこからも来ず、どこにも行かないのだ。私たちが見る来去や座ること、横になることは、衆生を度化するために示現された方便法門に過ぎない。」
その時、ある若い弟子が慎重に尋ねた:「世尊、では私たちはどのようにこの不来不去の如来を理解し、体験すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く答えた:「如来の真実の本質を理解するには、修行を通じて自ら体験する必要がある。身心への執着を超え、諸法の虚幻な本質を見破ることができれば、君たちはこの不来不去の如来を体験できるだろう。それには深い禅修と智慧の養成が必要だ。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、仏陀の教えが単なる外面的な行為にとどまらず、概念や言語を超えた究極の実相を指し示していることを意識し始めた。
「須菩提よ!もし善男子、善女人が、三千大千世界を砕いて微塵にしたとしたら、あなたはどう思うか?この微塵の数は多いだろうか?」「とても多いです、世尊よ!なぜでしょうか?もしこの微塵の数が実際にあるならば、仏はこれを微塵の数とは言わないでしょう。なぜならば?仏が説く微塵の数は、すなわち微塵の数ではなく、これを微塵の数と名付けるのです。世尊よ!如来が説く三千大千世界は、すなわち世界ではなく、これを世界と名付けるのです。なぜでしょうか?もし世界が実際にあるならば、それは一つの合した相です。如来が説く一つの合した相は、すなわち一つの合した相ではなく、これを一つの合した相と名付けるのです。」
仏陀の声は穏やかで知恵に満ち、奇妙に思える質問を投げかけた:「須菩提よ!もし善男子や善女人が、三千大千世界を粉砕して微塵にしたとしたら、君はその微塵の数は非常に多いと思うか?」
須菩提は少し考え、敬意を込めて答えた:「世尊、それらの微塵の数は間違いなく非常に膨大なものでしょう!しかし、世尊、もしこれらの微塵が本当に存在するのなら、仏陀はそれらを『微塵の群れ』とは呼ばれないでしょう。なぜなら、仏陀が言う微塵の群れは、実際には真に存在する微塵ではなく、ただの方便的な呼称に過ぎないからです。」
須菩提は一瞬の間を置き、深く息を吸って続けた:「同様に、世尊、あなたが言う三千大千世界も、実際には真に存在する世界ではなく、これもまた方便的な呼称に過ぎません。なぜそう言うのか?それは、もし世界が真に存在するなら、それは固定不変の全体となるからです。しかし、仏陀、あなたは私たちに、所謂の全体像は真実の全体像ではなく、これもまた方便的な呼称に過ぎないと教えておられます。」
須菩提の答えを聞いて、禅堂内の弟子たちは驚きと困惑の表情を浮かべた。ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?なぜ須菩提大師は微塵の群れや世界が真に存在しないと言ったのでしょうか?」
経験豊富な先輩は静かに説明した:「これは仏法の中で非常に深い空性の理を含んでおり、真に理解するには慎重に考え、修行する必要があります。」
仏陀は慈しみを込めて微笑み、須菩提に言った:「善哉、善哉!須菩提よ、君は私の教えを深く理解している。もう少し詳しく説明しよう。」
仏陀は周囲を見渡し、全ての弟子が熱心に聞いていることを確認すると、さらに話を続けた:「私たちが見る世界、巨大な星球も微小な粒子も、すべては因縁と和合によって成り立っている。それらには固定不変の本質はなく、相互依存し、絶えず変化している。『微塵の群れ』や『世界』と言うとき、これらは私たちが便利にコミュニケーションするために与えた名称であり、実際に存在する独立した実体を指しているわけではない。」
ある年長の比丘が悟ったように言った:「なるほど。仏陀は、現象界の虚幻な本質を見破り、すべての事物の空性を理解することを教えておられるのですね。」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ。私たちは事物の表面に執着してはいけない。本質を洞察することが重要なのだ。所謂の『一合相』とは、私たちが多くの因縁が和合した現象を、実在の全体と誤って捉えていることを指す。しかし、実際にはこの全体は真に存在するものではない。」
その時、ある若い弟子が慎重に尋ねた:「世尊、もしすべてが虚幻であるなら、私たちの修行には意味があるのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く答えた:「正にすべてが因縁と和合、無実体性であるからこそ、私たちの修行には意味があるのだ。この点を理解すれば、執着を手放し、真の解放を得ることができる。修行の目的は、これらすべてを如実に見抜くことであり、現象に惑わされることではない。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、仏陀の教えが彼らの世界に対する基本的な認識に挑戦していることを理解し、同時に究極の解放への道を指し示していることに気づき始めた。
「須菩提よ!一つの合した相とは、すなわち説くことができないものである。ただ凡夫の人がその事に貪着するだけである。」「須菩提よ!もし人が『仏は我見、人見、衆生見、寿者見を説いた。』と言うならば、須菩提よ!あなたはどう思うか?その人は私の説く意味を理解しているだろうか?」「世尊よ!その人は如来の説く意味を理解していません。なぜでしょうか?世尊が説く我見、人見、衆生見、寿者見は、すなわち我見、人見、衆生見、寿者見ではなく、これを我見、人見、衆生見、寿者見と名付けるのです。」
仏陀は深奥な教えを続け、声には知恵と慈悲が満ちていた:「須菩提よ!所謂の『一合相』は、実際には言葉で完全に表現することはできない。しかし、凡夫はしばしばこの表面的な現象に執着する。」
仏陀は少しの間を置いてから、新しい質問を投げかけた:「須菩提よ、もし誰かが『仏陀は我見、人見、衆生見、寿者見について語っている』と言ったとしたら、君はこの人が私の言う意味を本当に理解していると思うか?」
須菩提はしばらく考えた後、敬意を込めて答えた:「世尊、その人はあなたの教えを真に理解していません。なぜなら、あなたが言う我見、人見、衆生見、寿者見は、実際には真の我見、人見、衆生見、寿者見ではないからです。これらはただの方便的な呼称に過ぎません。」
この対話を聞いて、禅堂内の弟子たちは困惑の表情を浮かべた。ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?なぜ仏陀が語る見解は本当の見解ではないと言われるのですか?」
経験豊富な先輩は静かに説明した:「これは仏法の中で非常に深い空性の理に関わるもので、慎重に考えなければ理解できないのです。」
仏陀は慈しみを込めて微笑み、皆に言った:「私がさらに説明しよう。」彼は周囲を見渡し、全ての弟子が集中して聞いていることを確認すると、続けた:「私が我見、人見、衆生見、寿者見について語るとき、私はこれらがすべて虚妄の執着であることを指摘している。真の智慧は、これらの見解自体が空であり、実体がないことを認識することにある。」
ある年長の比丘が悟ったように言った:「なるほど。仏陀は、私たちがこれらの執着や分別を超え、すべての現象の空性の本質を理解するよう教えておられるのですね。」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ。私たちはこれらの見解について語るのは、それに執着するためではなく、皆がその虚妄性を認識し、執着を手放す手助けをするためなのだ。」
その時、ある若い弟子が慎重に尋ねた:「世尊、もしこれらの見解がすべて虚妄であるなら、私たちは世界や自分自身をどのように見ればよいのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く答えた:「重要なのは、無執着の智慧を育てることだ。私たちは自分の心を観察し、これらの見解がどのように生じ、どのように消えるかを見るべきだ。これらの見解に執着しなくなれば、物事の本来の姿を見ることができる。」
須菩提は補足した:「世尊が教えられたように、これらの見解自体は存在しないが、衆生を教化するために私たちはこれらの名称を使用する。重要なのは、それらの空性の本質を理解することだ。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、仏陀の教えが単なる理論にとどまらず、世界を見る方法を根本的に変える智慧であることを認識し始めた。
禅堂内は再び静かで深い雰囲気に包まれた。誰もが静かに仏陀の教えを消化し、この深遠で革命的な智慧が心の中で徐々に広がっていくのを感じていた。これらの概念を完全に理解するには長期の修行が必要だが、彼らはすでに自分自身と世界を見る新たな方法を感じ始めており、その方法には解放の希望と智慧の光が満ちていた。
「須菩提よ!無上正等正覚の心を発する者は、一切法について、このように知り、このように見、このように信解し、法相を生じないようにすべきである。須菩提よ!法相と言うものは、如来が説くには法相ではなく、これを法相と名付けるのである。」
仏陀は深奥な教えを続けた:「須菩提よ!」仏陀が呼びかけると、須菩提はすぐに仏陀に集中して見つめた。
仏陀は続けて言った:「無上正等覚を求める人々は、すべての法についてこのように理解し、このように観察し、このように信じ解すべきであり、法相を生じてはいけない。須菩提よ、所謂の法相は、如来が言うには真実の法相ではなく、ただの方便的な呼称に過ぎない。」
この言葉を聞いて、禅堂内の弟子たちは顔を見合わせ、困惑と好奇心に満ちた表情を浮かべた。
ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「これはどういう意味ですか?なぜすべての法を理解する必要があるのに、法相を生じてはいけないのでしょうか?」
経験豊富な先輩は静かに説明した:「これは仏法の中で非常に深い理に関わるもので、慎重に考え、修行しなければ真に理解できないのです。」
須菩提は深く息を吸い込み、敬意を込めて仏陀に尋ねた:「世尊、あなたの教えは深く考えさせられます。『如是知、如是見、如是信解』とは何か、さらに、なぜ法相が真実の法相ではないと言われるのか、詳しく教えていただけますか?」
仏陀は慈しみを込めて微笑み、「善哉、須菩提!良い質問だ。詳しく説明しよう。」と続けた。
仏陀は周囲を見渡し、全ての弟子が集中して聞いていることを確認すると、さらに話を続けた:「『如是知、如是見、如是信解』とは、私たちが正しい智慧をもってすべての法を理解し、観察し、理解すべきであることを指している。しかし重要なのは、この過程において、私たちは固定的な概念や相貌に執着してはいけないということだ。」
ある年長の比丘が悟ったように言った:「なるほど。仏陀は、私たちが開放的で執着のない心で世の中のすべてを理解すべきであり、特定の見解や概念に固執してはいけないと教えておられるのですね。」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ。私たちが『法相』について語るとき、実際には固定不変の相貌は存在しない。私たちが『法相』という言葉を使うのは、コミュニケーションや教育を便利にするためであり、それに執着してはいけない。」
その時、ある若い弟子が慎重に尋ねた:「世尊、では私たちは日常の修行の中で、どのようにこの不執着の態度を実践すればよいのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く答えた:「日常の修行の中で、常に自覚を保ち、自分の心を観察することが大切だ。もし自分が特定の概念や見解に執着し始めたことに気づいたら、それは一時的な現象であり、永遠不変の実相ではないと自分に思い出させることだ。徐々に、君はより開放的で柔軟な心で物事に向き合えるようになるだろう。」
須菩提は補足した:「世尊が教えられたように、私たちは『法相』という言葉を使うが、それが実在するわけではないことを理解することが重要だ。この理解自体が深い智慧なのだ。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、仏陀の教えが単なる理論にとどまらず、世界を見る方法を根本的に変える実践であることを認識し始めた。
「須菩提よ!もし人が無量阿僧祇世界に七宝を満たして布施したとしても、もし善男子、善女人が、菩薩の心を発して、この経を持ち、わずか四句の偈でも、受持し読誦し、人のために演説するならば、その福徳は前者に勝る。どのように人のために演説するのか?相を取らず、如如として動かない。なぜか?一切の有為法は、夢のようであり、幻のようであり、泡のようであり、影のようであり、露のようであり、また稲妻のようである。このように観じるべきである。」
仏陀の視線は再び禅堂内の弟子たちを掃い、最後に須菩提に留まった。優しくも堅固な声で、深奥な教えを続けた:「須菩提よ、よく聞いておくれ。」仏陀が言うと、須菩提はすぐに仏陀に集中して見つめた。
仏陀は続けて言った:「もし誰かが、無量阿僧祇の世界を満たすほどの七宝を布施したとしよう。しかし、もし善男子、善女人が菩薩の心を発し、この経典を受持し、読誦し、たとえその中の四句偈であっても、他者に説くならば、その人の福徳は前者よりもはるかに勝るのである。」
この言葉を聞いて、禅堂内の弟子たちは驚きの表情を浮かべずにはいられなかった。ある若い比丘は我慢できずに隣の先輩に小声で尋ねた:「なぜ数句の経文を読誦し説くことの功徳が、多くの宝物を布施するよりも大きいのですか?」
経験豊富な先輩が静かに説明した:「これは仏法の精髄に関わることで、深く考えなければ理解できません。」
須菩提は深く息を吸い、敬意を込めて仏陀に尋ねた:「世尊、あなたの教えは深く考えさせられます。私たちはどのようにしてこの経典を他者に説くべきでしょうか?」
仏陀は慈しみを込めて微笑み、答えた:「善哉、須菩提!この経を説く時は、いかなる相貌にも執着してはいけない。如如不動でなければならない。なぜなら、一切の有為の法は、夢のようであり、幻のようであり、泡のようであり、影のようであり、朝露のようであり、また閃電のようであると観ずべきだからだ。」
この言葉を聞いて、弟子たちの顔には困惑の表情が浮かんだ。ある年長の比丘が悟ったように言った:「なるほど、少しわかったような気がします。仏陀は、仏法を広める際、表面的な形式に執着せず、より深い智慧を体悟し伝えるよう教えておられるのですね。」
仏陀は満足そうに頷いた:「その通りだ。私たちがこの深遠な智慧を理解し伝えるとき、その功徳は世間の財物の布施を遥かに凌ぐのだ。」
その時、ある若い弟子が慎重に尋ねた:「世尊、一切の有為の法が夢幻泡影だと言われますが、私たちが生きるこの世界は真実ではないのでしょうか?」
仏陀は慈悲深く答えた:「この譬えは、世間のすべての現象の本質を理解するのを助けるためのものだ。夢のように、幻のように、泡のように、影のように、露のように、閃電のように、世間のすべての現象は短時間の、変化する、実体のないものなのだ。この点を理解すれば、執着を手放し、真の智慧と解脱を得ることができるのだ。」
須菩提は補足した:「世尊が教えられたように、私たちが仏法を説く際も、この不執着で如如不動の心を保つべきです。そうすることで、仏法の精髄を真に伝えることができるのです。」
弟子たちはこれを聞いて、深い思索に沈んでいった。彼らは、仏陀の教えが善行を積むことだけでなく、世界を見る方法を根本的に変える智慧であることを認識し始めた。
仏がこの経を説き終わると、長老須菩提及び諸々の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、一切世間の天、人、阿修羅は、仏の説かれたことを聞いて、皆大いに喜び、信じ受け奉じて行じた。
仏陀はこの《金剛経》の教えを宣講し終え、長老須菩提や座っている比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、さらには天界、人間、阿修羅の世界にいるすべての生きとし生けるものが、仏陀の開示を聞いた。
彼らは皆、心の中で喜びを感じ、誠心誠意これらの教えを受け入れ、奉じた。
須菩提と他の弟子たちは、仏陀の教えに深く感銘を受けた。彼らは心の中の智慧が、まるで新たに点灯されたかのように、長い間彼らを悩ませていた人生の謎に光を当てた。
仏陀の教えは高深で、真に体得するには長期の修行が必要であるが、座っている生きとし生けるものは皆、しっかりと学び、実践することを誓った。彼らは、自分自身の努力を通じてこそ、仏陀が授けた究極の智慧を真に理解できることを知っていた。
この時、禅堂内は厳かな喜びの雰囲気に包まれていた。弟子たちは静かに誓い、仏陀を模範として、精進を怠らず修行することを決意した。彼らは、真心をもって解脱を追求すれば、いつの日か仏陀のように無上正等覚を証得できると信じていた。
仏陀は微笑みを浮かべ、彼の教えがこれらの誠実な弟子たちの心に深く根付いていることを知っていた。この智慧の種は、未来の修行の中で成長し、彼らを解脱へと導く道を示すことになるだろう。
禅堂は徐々に静けさを取り戻し、弟子たちは仏陀の教えの余韻に浸っていた。彼らは皆、内なる深いところで自らを前進させる力を感じていた。彼らは今生を尽くして、仏陀の慈悲と智慧の教えを実践することを決意した。