『首楞厳経巻第十』要点概要
- 行陰尽相:修行者が行陰が尽きた時の状態を描写、夢想が消滅し、覚明が虚静になるなど。
- 十種禅那狂解:修行中に遭遇する可能性のある十種類の誤った認識と執着を詳述:
- 二無因論
- 四遍常論
- 四顛倒見(一分無常一分常論)
- 四有辺論
- 四種顛倒(不死矯乱遍計虚論)
- 死後有相発心顛倒
- 死後無相発心顛倒
- 死後倶非起顛倒論
- 七断滅論
- 五涅槃論
- 識陰区宇:識陰の特徴と修行者がこの境地に達した時の表現を解説。
- 十種識陰中の錯誤:識陰の段階で現れる可能性のある十種類の誤った見解と執着を詳細に説明。
- 五陰の本質:仏陀は五陰がすべて妄想によって成るものであると解説し、各陰の特性を詳述。
- 修行次第:五陰の生起と滅除の次第、および理論と実践上の差異を説明。
- 持経誦呪の功徳:『首楞厳経』と呪文を読誦することの殊勝な功徳を強調し、罪障を消除し菩提を成就するまでを説く。
- 教誨伝承:仏陀は阿難にこの法門を後世に伝えるよう嘱託し、衆生が魔事を見破り、邪見から遠ざかることを助ける。
- 五陰の辺際:各陰の境界を解説し、修行者が各陰の範囲を理解するのを助ける。
- 結語:教えに従って修行することの重要性と、この経の殊勝な功徳を強調。
これらの要点は『首楞厳経』第十巻の主要な内容を網羅しており、修行過程における様々な境地、遭遇する可能性のある障害、そして五陰の本質をどのように正しく理解するかを含み、修行者に重要な指導を提供している。
『首楞厳経巻第十』完全経文
阿難よ、あの善男子が三摩提(三昧)を修し、想陰が尽きれば、その人は平常の夢想が消滅し、覚醒時も睡眠時も常に一様となる。覚明は虚静で、晴れ渡った空のようであり、もはや粗雑で重苦しい前塵の影事(過去の塵労の影)はない。世間の大地や山河を観るに、鏡に映ったように明らかであり、来ても粘着することなく、過ぎ去れば痕跡も残さない。虚しく照応を受け、古い習気を了知し、ただ一つの精真のみがある。生滅の根元は、ここから露わになる。十方の十二類の衆生を見れば、その種類をすべて尽くしている。各々の命の由緒には通じていないが、共通の生の基盤を見ることは、まるで陽炎が揺らめき乱れるようであり、浮根・塵境の究極の要所となっている。これを名づけて行陰区宇(ぎょうおんくう)とする。もしこの清らかに揺らめく元の性質が、元来の澄明さに戻り、その習気も澄んで、波瀾が滅して澄んだ水となるようであれば、行陰が尽きたと名づける。その人は衆生の濁りを超えることができ、その由来を観れば、幽隠な妄想をもってその本としている。
阿難よ、まさに知るべきである。この正知を得た奢摩他(しゃまた)の中の諸々の善男子は、正心を凝明(ぎょうめい)にし、十種類の天魔もその便りを得ることができない。そこで精研して生類の根本を窮め、本類の中に生の元が露わになる者は、あの幽清で円擾(えんじょう)に動く元を観る。その円元の中に於いて計度(けいたく)を起こす者は、この人は二無因論に墜ち入る。
一つには、その人は本無因を見る。なぜか?その人はすでに生機を全て打破し、眼根の八百の功徳に乗じて、八万劫のあらゆる衆生が、業の流れに湾環し、ここで死んで彼処で生まれるのを見る。ただ衆生がその処で輪廻しているのを見るだけで、八万劫の外は冥々として観る所がない。そこでこのような解釈を作す:「これら世間十方の衆生は、八万劫来、原因無くして自ら有る」。この計度により正遍知を亡失し、外道に堕落して、菩提性を惑わす。
二つには、その人は末無因を見る。なぜか?その人は生に於いて既にその根を見、人が人を生み、鳥が鳥を生むことを知る。烏は従来黒く、鵠(くぐい)は従来白い。人と天は本来直立し、畜生は本来横行している。白は洗って成ったものではなく、黒は染めて造ったものではない。八万劫より復た改め移ることなし。今この形を尽くすも、また復たかくの如し。しかるに我は本来菩提を見ず、どうして更に菩提を成す事があろうか?当に知るべし、今日の一切の物象は、皆な本無因である。この計度により正遍知を亡失し、外道に堕落して、菩提性を惑わす。これを名づけて第一の外道、無因論を立つとする。
阿難よ、この三摩(三昧)の中の諸々の善男子は、正心を凝明にし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮め、あの幽清で常に擾動(じょうどう)する元を観る。その円常の中に於いて計度を起こす者は、この人は四遍常論に墜ち入る。
一つには、その人は心と境(対象)の性質の二処が無因であることを窮め、修習して二万劫の中の、十方衆生のあらゆる生滅を知り、それらが皆循環して曾て散失しないものとし、計って以て常と為す。
二つには、その人は四大の元である四つの性質が常住であることを窮め、修習して四万劫の中の、十方衆生のあらゆる生滅を知り、それらが皆体は恒(つね)にして曾て散失しないものとし、計って以て常と為す。
三つには、その人は六根・末那(マナ)の執受・心意識の中の本元の由処が性は常恒であることを窮め尽くし、修習して八万劫の中の、一切衆生が循環して失せず、本来常住であり、その失せざる性を窮め、計って以て常と為す。
四つには、その人は既に想元を尽くし、生理に更なる流止運転が無い。生滅の想心は今已に永滅し、理の中で自然に不生滅と成り、心によって度(はか)る所により計って以て常と為す。この常を計るに由りて正遍知を亡失し、外道に堕落して、菩提性を惑わす。これを名づけて第二の外道、円常論を立つとする。
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、自他の中に於いて計度を起こす者は、この人は四顛倒見、一分無常一分常論に墜ち入る。
一つには、その人は妙明の心が十方界に遍満するのを観て、湛然として以て究竟の神我と為す。ここから則ち我は十方に遍じ凝明にして不動であり、一切の衆生は我が心中に於いて自ら生まれ自ら死ぬと計る。則ち我が心性はこれを名づけて常と為し、彼の生滅する者は真に無常性であるとする。
二つには、その人はその心を観ず、遍く十方の恒沙の国土を観る。劫が壊れる処を見ては名づけて究竟無常種性とし、劫が壊れない処は名づけて究竟常とする。
三つには、その人は別に我が心を観るに、精細微密なること微塵の如し。十方に流転して性は移り改まることなく、能くこの身をして即生即滅せしめる。その壊れない性を名づけて我性常とし、一切の死生は我より流出するを名づけて無常性とする。
四つには、その人は想陰が尽きたことを知り、行陰が流れるのを見る。行陰の常流を計りて常性と為し、色・受・想等は今已に滅し尽くしたを名づけて無常とする。この一分無常一分常を計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第三の外道、一分常論とする。
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、分位の中に於いて計度を生ずる者は、この人は四有辺論に墜ち入る。
一つには、その人は心が計るに生元の流れ用いて息(や)まず、過去・未来を計る者を名づけて有辺とし、相相続する心を計るを名づけて無辺とする。
二つには、その人は八万劫を観るに、則ち衆生の八万劫前は寂として聞見無きを見る。聞見無き処を名づけて無辺とし、衆生有る処を名づけて有辺とする。
三つには、その人は我が遍知を計りて無辺性を得る。彼の一切の人は現に我が知の中に在り、我は曾て彼の知性を知らざれば、名づけて彼は無辺の心を得ず但だ有辺性のみとする。
四つには、その人は行陰の空を窮め、その見る所の心路を以て籌度(ちゅうど)する。一切衆生の一身の中、計るにそれ咸(みな)皆半生半滅なり。その世界の一切所有るを明らかにするに、半分は有辺、半分は無辺とする。この有辺無辺を計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第四の外道、有辺論を立つとする。
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、知見の中に於いて計度を生ずる者は、この人は四種顛倒、不死矯乱遍計虚論に墜ち入る。
一つには、その人は変化の元を観じ、変遷し流れる処を見てこれを名づけて変とし、相相続する処を見てこれを名づけて恒とし、見る所の処を見てこれを名づけて生とし、見ざる処を見てこれを名づけて滅とし、相続の因、性絶えざる処を名づけて増とし、正相続の中(うち)、中(なか)に離るる処を名づけて減とし、各各生ずる処、これを名づけて有とし、互互に亡ずる処、これを名づけて無とする。理を以て都(すべ)て観じ心を用い別に見て、法を求むる人有りて来てその義を問わば、答えて言うには「我は今、亦た生まれ亦た滅し、亦た有り亦た無し、亦た増し亦た減ず」と。一切の時に於いて皆その語を乱し、彼の前の人をして章句を遺失せしむ。
二つには、その人は諦(あきら)かにその心を観じ、互互に無き処、因(よ)りて無を証し得たり。人有りて来たり問わば、唯だ一字を答えて、但だその「無」を言い、無の余は言説する所無し。
三つには、その人は諦かにその心を観じ、各各に有る処、因りて有を証し得たり。人有りて来たり問わば、唯だ一字を答えて、但だその「是(ぜ)」を言い、是の余は言説する所無し。
四つには、その人は有無を倶(とも)に見、その境が枝(わか)れるが故にその心も亦た乱る。人有りて来たり問わば、答えて言うには「亦た有るは即ち是れ亦た無く、亦た無きの中は是れ亦た有るならず」と。一切矯乱して窮詰(きゅうきつ)を容れず。この矯乱虚無を計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第五の外道、四顛倒性、不死矯乱遍計虚論とする。
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、無尽流に於いて計度を生ずる者は、この人は死後有相発心顛倒に墜ち入る。或いは自ら身を固めて云く「色は是れ我なり」、或いは我は円にして遍く国土を含むを見て云く「我有り色なり」、或いは彼(外界)の前縁が我に随いて回復するを見て云く「色は我に属す」、或いは復た我が依する行中の相続を見て云く「我は色に在り」と。皆計度して言うには「死後に相有り」と。かくの如く循環して十六相有り。此より惑いて畢竟煩羅、畢竟菩提を計り、両性並び駆けて各各相触れずとす。この死後有るを計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第六の外道、五陰中死後有相心顛倒論を立つとする。
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、先に色・受・想を除滅せる中に於いて計度を生ずる者は、この人は死後無相発心顛倒に墜ち入る。その色の滅を見て形は因とする所無く、その想の滅を観て心は繫がる所無く、その受の滅を知りて後に連綴無く、陰性は銷散す。縦(たと)い生理有るも受想無くして草木と同じければ、この質現前するも猶お得べからず、死後云何んぞ更に諸相有らんや? これに因りて勘校(かんこう)するに死後相無し。かくの如く循環して八無相有り。ここより或いは涅槃・因果は一切皆空、徒らに名字有るのみにして究竟断滅なりと計る。この死後無きを計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第七の外道、五陰中死後無相心顛倒論を立つとする。
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、行(ぎょう)の存する中に於いて兼ねて受・想の滅するを受け、有無を双計して自体相破れ、この人は死後倶非起顛倒論に墜ち入る。色・受・想の中に於いて有と非有を見、行の遷流の内に於いて無と不無を観る。かくの如く循環して陰界を窮め尽くし、八倶非相に随いて一縁を得て、皆死後有相無相と言う。また諸行の性は遷り訛るが故に、心は通悟を発し有無倶非にして虚実は措(お)くを失うと計る。この死後倶非、後際は昏瞢(こんぼう)して道(い)うべき無きを計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第八の外道、五陰中死後倶非心顛倒論を立つとする。
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、後後の無生に於いて計度を生ずる者は、この人は七断滅論に墜ち入る。或いは身滅を計り、或いは欲尽滅、或いは苦尽滅、或いは極楽滅、或いは極捨滅を計る。かくの如く循環して七際を窮め尽くし、現前銷滅し滅して已(すで)に復(また)無しとする。この死後断滅を計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第九の外道、五陰中死後断滅心顛倒論を立つとする。
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、後後の有生に於いて計度を生ずる者は、この人は五涅槃論に墜ち入る。或いは欲界を以て正転依と為し、円明を観見して愛慕を生ずるが故なり。或いは初禅を以て性無憂なるが故に、或いは二禅を以て心無苦なるが故に、或いは三禅を以て極悦随うが故に、或いは四禅を以て苦楽の二つ亡じ、輪廻の生滅性を受けざるが故に(涅槃と為す)。有漏の天に迷いて無為の解を作(な)し、五処の安隠を勝浄依と為す。かくの如く循環して五処を究竟とし、この五現涅槃を計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第十の外道、五陰中五現涅槃心顛倒論を立つとする。
阿難よ、かくの如き十種の禅那(ぜんな)の狂解は、皆これ行陰の用心が交互するが故に斯(か)くの如き悟りを現ずるなり。衆生は頑迷にして自ら忖量(そんりょう)せず、この現前に逢いて迷いを以て解と為し、自ら聖に登ると言い、大妄語を成して、無間地獄に堕つ。汝等は必ず如来の心を持って、我が滅後に於いて末法に伝示し、遍く衆生をして斯の義を覚了せしめよ。心魔をして自ら深孽(しんげつ)を起こさしむること無く、保持し覆護して、邪見を消息し、その身心をして真義を開覚せしめよ。無上道に於いて枝岐(しき)に遭わず、心を令して少得を祈りて足を為さず、大覚王の清浄の指標と作(な)せ。
阿難よ、あの善男子が三摩提を修し行陰が尽きた者は、諸々の世間の性は幽清にして擾動し、同分の生機は倏然(しゅくぜん)として堕裂す。沈細なる綱紐、補特伽羅(プドガラ)、酬業の深脈、感応懸絶す。涅槃天に於いて将に大明悟せんとし、鶏の後鳴の如く東方を瞻顧(せんこ)するに已に精色有り。六根は虚静にして復た馳逸すること無く、内外交明にして入るも入る所無し。深く十方の十二種類の受命の元由に達し、由を観じ元を執(と)るも諸類召さず。十方界に於いて已にその同を獲、精色沈まず幽秘を発現す、これを名づけて識陰区宇(しきおんくう)とする。若し群召に於いて已に同を獲る中、六門を銷磨(しょうま)し合開成就し、見聞通隣して互用清浄ならん。十方世界及び身心は、吠瑠璃(べいるり)の如く内外明徹なるを、名づけて識陰尽とす。その人は則ち能く命濁を超越す。その所由を観るに、罔象虚無にして、顛倒妄想を以てその本と為す。
阿難よ、当に知るべし、この善男子は諸々の行空を窮め、識に於いて元に還り已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。能く己身の根隔をして合開せしめ、亦た十方の諸類と通覚し、覚知通淴(つうこつ)として能く円元に入る。若し帰する所に於いて真常の因を立て勝解を生ずる者は、この人は則ち因所因執に堕つ。娑毘迦羅(カピラ)の帰する所の冥諦(みょうたい)がその伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第一の所得心を立て、所帰の果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、外道種を生ずとす。
阿難よ、また善男子は諸々の行空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。若し帰する所に於いて覧じて自体と為し、虚空界を尽くし十二類内のあらゆる衆生、皆我が身中の一類より流出すと勝解を生ずる者は、この人は則ち能非能執に堕つ。摩醯首羅(マヘーシュヴァラ)が現ずる無辺身が、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第二の能を立てて心と為し、能事の果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、大慢天の我遍円種を生ずとす。
また善男子は諸々の行空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。若し帰する所に於いて帰依する所(対象)有り、自ら身心は彼より流出し、十方虚空も咸(みな)其れ生起すと疑う。即ち都(すべて)起こる所の宣流の地に於いて、真常の身を作(な)し無生滅の解を作す。生滅の中に在りて早く常住と計り、既に不生に惑い亦た生滅に迷い、安住沈迷して勝解を生ずる者は、この人は則ち常非常執に堕つ。自在天を計るが、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第三の因依心を立て、妄計果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、倒円種を生ずとす。
また善男子は諸々の行空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。若し知る所に於いて知は遍円なるが故に、因知して解を立て十方の草木も、皆有情と称して人と異ならずとす。草木は人と為り人は死して還た十方の草樹と成る、無択遍知として勝解を生ずる者は、この人は則ち知無知執に堕つ。婆吒(ヴァシシュタ)、霰尼(セーニカ)が執する一切覚がその伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第四の円知心を計り、虚謬果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、倒知種を生ずとす。
また善男子は諸々の行空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。若し円融・根互用の中に於いて已に随順を得、便ち円化に於いて一切を発生す。火の光明を求め、水の清浄を楽しみ、風の周流を愛し、塵の成就を観じ、各各崇事(すうじ)して以てこの群塵を(尊ぶ)。発作の本因として常住の解を立つるは、この人は則ち生無生執に堕つ。諸々の迦葉波(カッシャパ)並びに婆羅門(バラモン)の、勤心役身して火に事(つか)え水を崇め、生死を出ずるを求むる者がその伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第五の計著崇事、心に迷い物に従い妄求の因を立て、妄りに果を冀(こいねが)い、円通に違遠し、涅槃城に背き、顛化種を生ずとす。
また善男子は諸々の行空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。若し円明に於いて明中の虚を計り、群化を滅するに非ずして以て永滅の依と為し、帰依する所と為して勝解を生ずる者は、この人は則ち帰無帰執に堕つ。無想天中の諸々の舜若多(シューニャター:空神)がその伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第六の円虚無心、空亡果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、断滅種を生ずとす。
また善男子は諸々の行空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。若し円常の固身常住、精円に同じく長く傾逝(けいせい)せずとして勝解を生ずる者は、この人は則ち貪非貪執に堕つ。諸々の阿斯陀(アシタ)長命を求むる者がその伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第七の著命元を執し固妄因を立て、長労果に趣き、円通に違遠し、涅槃城に背き、妄延種を生ずとす。
また善男子は諸々の行空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。命の互通を観じて却って塵労を留めその銷尽を恐れ、便ち此の際に於いて蓮華宮に坐し、広く七珍を化し多く宝媛を増し、その心を縦恣して勝解を生ずる者は、この人は則ち真無真執に堕つ。吒抧迦羅(天魔)がその伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第八の邪思因を発し、熾塵果を立て、円通に違遠し、涅槃城に背き、天魔種を生ずとす。
また善男子は諸々の行空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。命明の中に於いて精麁(せいそ)を分別し、真偽を疏決(そけつ)して因果相酬い、唯だ感応を求めて清浄道に背く。所謂苦を見、集を断じ、滅を証し、道を修し、滅に居して已に休み、更に前進せずして勝解を生ずる者は、この人は則ち定性声聞に堕つ。諸々の無聞の僧、増上慢の者がその伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第九の円精応心、趣寂果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、纏空種を生ずとす。
また善男子は諸々の行空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅の精妙に於いては未だ円ならず。若し円融清浄の覚明に於いて、深妙を発研して即ち涅槃を立て、而も前進せずして勝解を生ずる者は、この人は則ち定性辟支(独覚)に堕つ。諸々の縁独倫(えんどくりん)、心を迴(めぐ)らさざる者が、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。これを名づけて第十の円覚泯心、湛明果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、覚円明不化円種を生ずとす。
阿難よ、かくの如き十種の禅那、中途にして狂因依を成し、或いは未足の中に満足の証を生ず。皆これ識陰の用心が交互するが故に斯(か)くの如き位を生ず。衆生は頑迷にして自ら忖量(そんりょう)せず、この現前に逢いて各各愛する所を以て、先習の迷心にして自ら休息し、将に畢竟の所帰寧地と為さんとす。自ら無上菩提を満足すと言い、大妄語の外道邪魔を成し、感ずる所の業終われば無間地獄に堕つ。声聞・縁覚は増進を成さず。汝等心を存して如来の道を秉(と)り、この法門を将(もっ)て我が滅後に於いて末世に伝示し、普(あまね)く衆生をして斯の義を覚了せしめよ。見魔をして自ら沈溺を作(な)さしむること無く、保綏(ほすい)哀救して邪縁を消息し、その身心をして仏知見に入らしめよ。始め従(よ)り成就するまで岐路に遭わざらしめよ。かくの如き法門は先の過去世、恒沙劫中の微塵の如来、この心開きに乗じて無上道を得たり。識陰若し尽きれば則ち汝が現前の諸根互用し、互用中より能く菩薩の金剛乾慧に入る。円明の精心は中に於いて発化し、浄瑠璃の内(うち)に宝月を含むが如し。かくの如く乃ち十信・十住・十行・十回向・四加行心を超う。菩薩の所行、金剛十地・等覚円明、如来の妙荘厳海に入らん。円満菩提して帰する所も得る無し。此れは是れ過去の先仏世尊、奢摩他中の毘婆舍那(ヴィパッサナー)、覚明分析の微細なる魔事なり。魔境現前するも汝能く諳識(あんしき)せば、心垢洗除して邪見に落ちず。陰魔銷滅し天魔摧砕し、大力鬼神は褫魄(ちはく)して逃逝し、魑魅魍魎は復た出生せず。菩提に至るまで諸の少乏下劣の増進無く、大涅槃に於いて心迷悶せず。若し諸々の末世の愚鈍の衆生、未だ禅那を識らず説法を知らず、好んで三昧を修せば汝恐らくは邪に同じからん。一心に勧めて我が仏頂陀羅尼呪を持たしめ、若し誦すること能わざれば禅堂に写し或いは身に帯せしめば、一切の諸魔も動かす所能わず。汝当に十方の如来、究竟修進の最後垂範を恭欽(きょうきん)すべし」。
阿難は即ち座より起きて仏の示誨(じかい)を聞き、頂礼し欽奉(きんぶ)して憶持し失わず。大衆の中に於いて重ねて復た仏に白(もう)さく:「仏の言われる如く五陰の相の中、五種の虚妄は本想心を為(な)す。我等平常、未だ如来の微細の開示を蒙らず。またこの五陰は併せて銷除すべきか、次第に尽くすべきか?かくの如く五重の詣(いた)りは何をか界と為す?惟(ただ)願わくは如来大慈を発宣し、この大衆の為に心目を清明にし、以て末世の一切衆生の為に将来の眼と作(な)したまえ」。
仏、阿難に告げたまわく:「精真妙明・本覚円浄は、死生及び諸の塵垢を留めず、乃至虚空も、皆妄想に因りて生起する所なり。斯の元の本覚妙明真精は、妄りに以て諸の器世間を発生す。演若多(ヤジュニャダッタ)が頭に迷いて影を認めし如く、妄の元は無因なり。妄想の中に於いて因縁性を立て、因縁に迷う者は称して自然(じねん)と為す。彼の虚空性すら猶ほ実には幻生なり、因縁・自然は、皆これ衆生の妄心の計度なり。阿難よ、妄の起こる所を知りて妄の因縁を説け、若し妄の元無くんば、妄の因縁を説くも元より所有ること無し。何況や推して自然とするを知らざる者をや。是の故に如来汝と五陰の本因は同じく是れ妄想なりと発明す。
汝が体は先ず父母の想に因りて生ず。汝が心想ならざれば、則ち想の中に于(おい)て命を伝えること能わず。如し我、先に言えるが如く、心に酢の味を想えば口中に涎が生じ、心に高きに登るを想えば足心に酸(す)っぱさが起こる。懸崖有らず酢物未だ来らざるに、汝が体必ず虚妄の通倫に非ずんば、口水如何ぞ酢を談ずるに因りて出ずる?是の故に当に知るべし、汝が現前の色身は、名づけて堅固第一妄想と為す。即ち此の説く所の高きに臨む想心、能く汝が形をして真に酸渋(さんじゅう)を受けしむ。受生に因りて能く色体を動かすに由りて、汝今現前に順益・違損の二つ現に駆馳するを、名づけて虚明第二妄想と為す。汝が念慮、汝が色身を使うに由りて、身は念の倫に非ざるに汝が身何等の因にて、念に随いて使われ種種に像を取るや?心生じて形取り念と相応し、寤(さ)むれば即ち想心、寐(い)ぬれば諸夢と為る。則ち汝が想念、妄情を揺り動かすを、名づけて融通第三妄想と為す。化理住せず運運として密に移り、甲は長じ髪は生じ気は銷し容は皺む。日夜相代わりて曾て覚悟無し。阿難よ、此れ若し汝に非ずんば、云何んぞ体遷る?如し必ず是れ真なら、汝何ぞ覚無き?則ち汝が諸行、念念として停まらざるを、名づけて幽隠第四妄想と為す。また汝が精明湛然として揺るがざる処、常と名づくる者、身に於いて見聞覚知を出でず。若し実に精真にして、習妄を容れずんば、何の因にて汝等曾て昔年一の奇物を見て、年歳を経て憶忘倶に無きも、後に於いて忽然と覆た前の異(奇物)を見て、記憶宛然として曾て遺失せざる?則ち此の精了湛然として揺るがざる中、念念として薫を受くるは、何等の籌算有りや?阿難当に知るべし、此の湛は真に非ず、急流水の望めば恬静なるが如く、流れ急にして見えざるは是れ無流に非ず。若し想元に非ずんば寧ろ想習を受けんや?汝が六根に非ず、互用合開する此の妄想、時として滅を得ること無し。故に汝、現在見聞覚知の中、串習すること幾(いくばく)、則ち湛了の内に罔象虚無なる、第五の顛倒細微精想なり。
阿難よ、是の五受陰は五妄想の成ぜるなり。汝今、因界の浅深を知らんと欲せば、唯だ色と空は是れ色の辺際、唯だ触及び離は是れ受の辺際、唯だ記と忘は是れ想の辺際、唯だ滅と生は是れ行の辺際、湛に入り湛を合し識に帰するは辺際なり。此の五陰の元は重畳して生起し、生は識に因りて有り、滅は色従(よ)り除く。理は則ち頓に悟り、悟りに乗じて併せて銷すれども、事は頓には除かれず、次第に因りて尽くす。我已に汝に劫波(カルパ)の巾(きん)の結を示せり、何の不明なる所ありて再た此に詢問するや。汝応に此の妄想の根元を将(もっ)て、心をして開通を得せしめ、将来末法の中の諸の修行者に伝示し、虚妄を識りて深く自生を厭い、涅槃有るを知りて三界を恋わざらしむべし」。
阿難よ、若し復た人有りて、遍く十方のあらゆる虚空に七宝を盈満し、持して以て微塵の諸仏に奉上し、承事供養して心虚しく度ること無からん。意に於いて云何?是の人此れを以て仏に施す因縁にて、得る所の福多きや不や?
阿難答えて言わく:「虚空は無尽にして、珍宝は無辺なり。昔衆生有りて仏に七銭を施し、身を捨てて猶ほ転輪王の位を獲たり。況や復た現前の虚空既に窮まり、仏土に充遍して皆珍宝を施すをや。窮劫思議するも尚ほ及ぶこと能わず、是の福云何ぞ更に辺際有らんや?」
仏、阿難に告げたまわく:「諸仏如来は語に虚妄無し。若し復た人有りて身に四重・十波羅夷を具するも、瞬息にして即ち此の方・他方の阿鼻地獄を経て、乃至窮尽し、十方無間として歴(へ)ざる靡(な)くとも、能く一念を以て此の法門を将て、末劫の中に於いて未学に開示せば、是の人罪障応念して銷滅し、その受くる所の地獄の苦因を変じて安楽国と成さん。福を得ること前の施人に超越すること、百倍千倍千万億倍、かくの如く乃至算数譬喩も及ぶこと能わざる所なり。阿難よ、若し衆生有りて能く此の経を誦し能く此の呪を持たば、我が広く説ける如く窮劫するも尽くさず。我が教言に依り教の如く道を行ぜば、直ちに菩提を成して復た魔業無からん。」
仏此の経を説き已(おわ)りたまえば、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、一切世間の天・人・阿修羅、及び諸の他方の菩薩・二乗・聖仙・童子、並びに初発心の大力鬼神、皆大いに歓喜し、礼を作(な)して去りぬ。
『首楞厳経第十巻』現代語訳
阿難よ、あの善男子が三摩提を修め、想陰が尽きた人は、普段の夢想が消滅し、寝ても覚めても常に一様になります。覚明は虚静で、まるで晴れ渡った空のようであり、もはや粗雑で重苦しい過去の塵労の影はありません。世間の大地や山河を観察すると、鏡に映ったように明らかで、来ても粘着せず、過ぎ去れば痕跡も残しません。虚しく照応を受け、古い習気を了知し、ただ一つの精真のみがあります。生滅の根元は、ここから露わになります。十方の十二類の衆生を見れば、その種類をすべて尽くしています。各々の命の由来には通じていませんが、共通の生の基盤を見ることは、まるで陽炎が揺らめき乱れるようであり、浮根・塵境の究極の要所となっています。これを名づけて行陰区宇(ぎょうおんくう)とします。もしこの清らかに揺らめく元の性質が、元来の澄明さに戻り、その習気も澄んで、波瀾が滅して澄んだ水となるようであれば、行陰が尽きたと名づけます。その人は衆生の濁りを超えることができ、その由来を観れば、幽隠な妄想をもってその本としています。
阿難よ、面白い話をしましょう。昔ある善良な修行者がいて、彼は一生懸命三摩地を修習していました。彼の想陰が消滅したとき、いくつかの奇妙な変化が起きました。
普通の人は夢を見るとき様々に奇妙な想像をしますが、この修行者は違いました。彼の夢想は消え、眠っていても起きていても、心境は同じでした。彼の意識は清らかで静かになり、まるで晴れた空のようで、もはや粗重な雑念や煩悩はありませんでした。彼が世間の山河大地を観察するとき、すべては鏡の中の映像のように鮮明でした。あらゆる光景は彼の心に痕跡を残さず、水面を吹き抜ける風のように、影も形もなく過ぎ去りました。
この修行者の心霊は非常に純粋になり、最も本真な精神だけが残りました。彼は生命の根源を見始め、まるで神秘のベールを開いたようでした。彼は十方世界の中のあらゆる生命を見ることができ、個々の生命の来歴を完全に理解してはいませんでしたが、すべての生命に共通する本源を見ました。この本源は揺らめく浮光のようで、清らかでありながら微かに動いており、すべての生命の根本でした。
修行者はさらに深く修行を続け、ついに彼の心霊は静かな湖面のように、一筋の波紋もなくなりました。この時、彼はついに衆生の混濁を超え、一切の虚妄の本質を見抜きました。
阿難よ、まさに知るべきです。この正知を得た奢摩他(しゃまた)の中の諸々の善男子は、心を凝らして明らかにし、十種類の天魔もその隙を伺うことができません。そこで精研して生類の根本を窮め、本類の中に生の元が露わになる者は、あの幽清で円擾(えんじょう)に動く元を観るのです。その円元の中に於いて計度(推測)を起こす者は、二無因論に陥ります。
阿難よ、知っておくべきです。善良な修行者たちが正しく奢摩他を修習するとき、彼らの心霊は堅固で明るくなります。この時、たとえ十種類の天魔であっても、彼らを乱すことはできません。
しかし、彼らが生命の根源を深く探究し始めるとき、ある人々はこの過程で誤った考えを生むかもしれません。彼らはあの清浄でありながら微かに揺れ動く生命の本源を誤解し、様々な推測や計算をし始めるかもしれません。そうすると、彼らは「二無因論」という誤った観念に陥ってしまいます。
一つには、その人は本無因を見ます。なぜでしょうか?その人はすでに生機を全て打破し、眼根の八百の功徳に乗じて、八万劫のあらゆる衆生が、業の流れに曲がりくねり、ここで死んであそこで生まれるのを見ます。ただ衆生がその場所で輪廻しているのを見るだけで、八万劫の外は暗くて見る所がありません。そこでこのような解釈をします:「これら世間十方の衆生は、八万劫来、原因無くして自ら存在する」。この推測により正遍知を亡失し、外道に堕落して、菩提性を惑わします。
仏陀は続けて「二無因論」について説明しました。これは二つの誤った観点です。第一の誤った観点「本無因論」:ある修行者たちは生命の根源を見、八万劫以来の衆生の輪廻を見ることができます。彼らは衆生が異なる世界で生死を繰り返すのを見ますが、八万劫より前のことについては何も知りません。
そこで、彼らは誤った考えを持ちました。「これらの衆生は八万劫以来、自然に存在しているのであり、何の原因もない。」彼らはこのような誤った推測のために、正しい智慧を失い、外道となり、菩提の本質を見失ってしまいました。
二つには、その人は末無因を見ます。なぜでしょうか?その人は生に於いて既にその根を見、人が人を生み、鳥が鳥を生むことを知ります。烏(カラス)は従来黒く、鵠(白鳥)は従来白い。人と天は本来直立し、畜生は本来横行しています。白は洗って成ったものではなく、黒は染めて造ったものではありません。八万劫より変わることはありません。今この形が尽きても、また同じようです。それなのに私は本来菩提を見ず、どうして更に菩提を成す事があるでしょうか?まさに知るべきです、今日の一切の物象は、皆原因がありません。この推測により正遍知を亡失し、外道に堕落して、菩提性を惑わします。これを第一の外道、無因論を立てると言います。
第二の誤った観点「末無因論」:別の修行者たちは生命の根源を見た後、いくつかの興味深い現象を発見しました。人は人を生み、鳥は鳥を生むということです。カラスはいつも黒く、白鳥はいつも白いのです。人と天人は直立し、動物は横歩きです。これらの特徴は八万劫以来変わっていないように見えます。
そこで、彼らは考えました。「既然これらが変わらないのであれば、成仏などということも恐らく不可能だろう?」
彼らはこのような結論に達しました。「現在あるすべての事物は原因がなく、すべては自然にそうなっているのだ。」これら二つの観点はどちらも誤りです。これらの誤った推測のために、これらの修行者は正しい智慧を失い、外道となり、菩提の本質を見失いました。仏陀は言いました、これが第一の外道の無因論であると。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、ごらん、修行の道には多くの落とし穴があるのだ。私たちは警戒を怠らず、表面的な現象に目を惑わされてはいけない。真の智慧とは、これらの現象の背後にある真理を見抜くことなのだ。」
阿難よ、この三摩(三昧)の中の諸々の善男子は、正心を凝明にし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮め、あの幽清で常に擾動(じょうどう)する元を観ます。その円常の中に於いて計度を起こす者は、四遍常論に墜ち入ります。
仏陀は続けて、修行者が遭遇する可能性のある落とし穴について語りました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、ある修行者たちは三摩地の中で、心意が堅定し、悪魔に惑わされることはない。彼らは生命の根源を深く探究し、あの微妙で清浄かつ常に揺動している本源を観察する。しかし、ある人々はこの円満で常恒の本源を観察するとき、妄想を始め、結果として『四遍常論』の落とし穴に落ちてしまうのだ。」
「四遍常論とは何ですか?」阿難は好奇心を持って尋ねました。
一つには、その人は心と境(対象)の性質の二処が無因であることを窮め、修習して二万劫の中の、十方衆生のあらゆる生滅を知り、それらが皆循環して散失しないとし、計って常と為します。
仏陀は微笑んで説明しました。「第一の誤った観点。ある修行者たちは、二万劫の時間の中で、すべての衆生の生死輪廻が絶えず循環しており、決して消失していないことを観察した。そこで彼らは、この循環は永遠不変であると考えてしまったのだ。」
二つには、その人は四大の元である四つの性質が常住であることを窮め、修習して四万劫の中の、十方衆生のあらゆる生滅を知り、それらが皆体は恒(つね)にして散失しないとし、計って常と為します。
「第二の誤った観点。別の修行者たちは、四万劫の時間において、衆生を構成する地・水・火・風の四大元素が常に存在し、消滅していないことを観察した。そこで彼らは、これら四大元素は永遠不変であると考えてしまった。」
三つには、その人は六根・末那(マナ)の執受・心意識の中の本元の由処が性は常恒であることを窮め尽くし、修習して八万劫の中の、一切衆生が循環して失せず、本来常住であり、その失せざる性を窮め、計って常と為す。
「第三の誤った観点。またある修行者たちは、八万劫の時間において、衆生の六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)、末那識(第七識)、阿頼耶識(第八識)が常に存在し、消滅していないことを観察した。そこで彼らは、これらの意識は永遠不変であると考えてしまった。」
仏陀は少し間を置いて、続けました。「これらの修行者たちは、いくつかの長期間変わらない現象を見たために、これらの現象が永遠であると誤って考えてしまったのだ。」
「しかし、彼らは重要な事実を見落としている。たとえ非常に長い時間であっても、それは永遠と等しいわけではないのだ。」
仏陀は心を込めて言いました。「阿難よ、覚えておきなさい。真の智慧とは、単に現象を観察することではなく、現象の背後にある真理を見抜くことなのだ。長い間変わらないものを見たからといって、それが永遠であると考えてはいけない。そのような考えは私たちを迷わせ、世界の真の姿を理解する妨げとなる。」
四つには、その人は既に想元を尽くし、生理に更なる流止運転が無い。生滅の想心は今已に永滅し、理の中で自然に不生滅と成り、心によって度(はか)る所により計って常と為す。この常を計るに由りて正遍知を亡失し、外道に堕落して、菩提性を惑わす。これを名づけて第二の外道、円常論を立つとする。
仏陀は続けて第四の誤った観点について語りました。「またある修行者たちは、自分の想像力が完全に停止し、生命の活動ももはや存在しないかのように見えることを観察した。彼らは生滅する想念はすでに永遠に消え去り、残るは不生不滅の本質だけだと考えた。そこで、彼らはこの状態こそが永遠であると考えたのだ。」
仏陀はため息をつきました。「これらの人々は、このような誤った推測のために、正しい智慧を失い、外道となり、菩提の本質を見失ってしまった。これが第二の外道の円常論である。」
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、自他の中に於いて計度を起こす者は、この人は四顛倒見、一分無常一分常論に墜ち入る。
続いて、仏陀は別の誤った観点について話しました。「阿難よ、ある修行者は三摩地の中で、心意が堅定し、悪魔に惑わされることはない。彼らは生命の根源を深く探究し、あの微妙で清浄かつ常に揺動している本源を観察する。しかし、彼らが自分と他人を比較し始めるとき、『四顛倒見(四つの転倒した見解)』の落とし穴に落ち、あるものは永遠であり、あるものは無常であると考えるようになるのだ。」
一つには、その人は妙明の心が十方界に遍満するのを観て、湛然として以て究竟の神我と為す。ここから則ち我は十方に遍じ凝明にして不動であり、一切の衆生は我が心中に於いて自ら生まれ自ら死ぬと計る。則ち我が心性はこれを名づけて常と為し、彼の生滅する者は真に無常性であるとする。
第一の転倒した見解:
「ある修行者は自分の心が十方世界に満ち渡り、清く澄んでいるのを観察した。彼らはこれこそが究極の神我(アートマン)であると考えた。彼らは自分の心は永遠不変であり、他の衆生は自分の心の中で生死を繰り返す無常なものであると考えたのだ。」
二つには、その人はその心を観ず、遍く十方の恒沙の国土を観る。劫が壊れる処を見ては名づけて究竟無常種性とし、劫が壊れない処は名づけて究竟常とする。
第二の転倒した見解:
「ある修行者は自分の心を観察せず、十方の無数の世界を観察した。彼らはある世界が壊滅するのを見て、それらは無常であると考え、壊滅しない世界を見て、それらは永遠であると考えた。」
仏陀は立ち止まり、穏やかに阿難を見て言いました。「ごらん、阿難。これらの修行者たちは皆同じ過ちを犯している。彼らは真実の一部だけを見て、すべてを理解したと思い込んでいるのだ。彼らはこの世界において、真に永遠不変のものはなく、また完全に無常なものもないことに気づいていない。真の智慧とは、すべての事物の相互関連性と変化の本質を理解することなのだ。」
三つには、その人は別に我が心を観るに、精細微密なること微塵の如し。十方に流転して性は移り改まることなく、能くこの身をして即生即滅せしめる。その壊れない性を名づけて我性常とし、一切の死生は我より流出するを名づけて無常性とする。
第三の転倒した見解:
仏陀は言いました。「ある修行者は自分の心を観察し、それが微塵のように精細で微妙であることを発見した。彼らはこの心が十方世界を流転しながらも永遠に変わることはないと考えた。彼らはこの心が身体を生滅させることができると感じ、したがって心は永遠であり、生死は無常であると考えたのだ。」
四つには、その人は想陰が尽きたことを知り、行陰が流れるのを見る。行陰の常流を計りて常性と為し、色・受・想等は今已に滅し尽くしたを名づけて無常とする。この一分無常一分常を計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第三の外道、一分常論とする。
第四の転倒した見解:
仏陀は続けて言いました。「またある修行者たちは、自分の想像力が消滅したことに気づいたが、行為の衝動(行陰)はまだ続いているのを見た。彼らはこの持続する行為の衝動は永遠であり、すでに消滅した色・受・想などは無常であると考えたのだ。」
仏陀はため息をつきました。「これらの人々はこのような誤った判断により、あるものは永遠であり、あるものは無常であると考えた。その結果、彼らは方向を見失い、正しい智慧を失って外道となった。これが第三の外道の一分常論である。」
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、分位の中に於いて計度を生ずる者は、この人は四有辺論に墜ち入る。
続いて、仏陀は別の誤った観点について話しました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、ある修行者は三摩地の中で、心意が堅定し、悪魔に惑わされることはない。彼らは生命の根源を深く探究し、あの微妙で清浄かつ常に揺動している本源を観察する。しかし、彼らが世界の範囲について考え始めるとき、『四有辺論』の落とし穴に落ちてしまうのだ。」
「四有辺論とは何ですか?」阿難は好奇心を持って尋ねました。
仏陀は微笑んで言いました。「これは世界の範囲に関する修行者の誤った理解のことだ。彼らは世界が有限か無限かを確定しようとするが、実際には、彼らは真実の全貌を見ていないのだ。」
仏陀は少し間を置いて、続けました。「阿難よ、覚えておきなさい。真理は往々にして白か黒かではないのだ。世界の本質は複雑であり、私たちは簡単にそれが有限か無限かと言うことはできない。真の智慧とは、世界の相互関連性を理解することであり、それに定義を下そうとすることではないのだ。」
一つには、その人は心が計るに生元の流れ用いて息(や)まず、過去・未来を計る者を名づけて有辺とし、相相続する心を計るを名づけて無辺とする。
仏陀は続けて「四有辺論」について説明しました。第一的有辺論:
仏陀は言いました。「ある修行者は生命の本源は絶えず流動していると考えた。彼らは過去と未来を有辺(有限)と見なし、持続する心を無辺(無限)と見なした。」
二つには、その人は八万劫を観るに、則ち衆生の八万劫前は寂として聞見無きを見る。聞見無き処を名づけて無辺とし、衆生有る処を名づけて有辺とする。
第二的有辺論:
「ある修行者は八万劫以前のことを観察した」仏陀は続けました。「彼らはそれ以前には、いかなる生命も存在しなかったように見えることを発見した。そこで彼らは、生命のない場所は無辺(無限)であり、生命のある場所は有辺(有限)であると考えた。」
三つには、その人は我が遍知を計りて無辺性を得る。彼の一切の人は現に我が知の中に在り、我は曾て彼の知性を知らざれば、名づけて彼は無辺の心を得ず但だ有辺性のみとする。
第三的有辺論:
仏陀は説明しました。「ある修行者は自分の知識は無辺であると考えた。彼らは他人の知識はすべて自分の認知範囲内にあるが、自分は他人の知識の本質を知らないと感じた。だから彼らは他人の知識は有辺であり、自分の知識だけが無辺であると考えたのだ。」
四つには、その人は行陰の空を窮め、その見る所の心路を以て籌度(ちゅうど)する。一切衆生の一身の中、計るにそれ咸(みな)皆半生半滅なり。その世界の一切所有るを明らかにするに、半分は有辺、半分は無辺とする。この有辺無辺を計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第四の外道、有辺論を立つとする。
第四的有辺論:
仏陀は言いました。「またある修行者たちは、行陰の空性を深く観察し、自分の理解で推測を行った。彼らは各人の身体の中で、半分は生であり、半分は滅であると考えた。彼らはこの考えを世界全体に広げ、世界の半分は有辺であり、半分は無辺であると考えたのだ。」
仏陀はため息をつきました。「これらの人々はこのような誤った判断により、世界を有辺あるいは無辺と考えた。その結果、彼らは方向を見失い、正しい智慧を失って外道となった。これが第四の外道の有辺論である。」
仏陀は立ち止まり、穏やかに阿難を見て言いました。「阿難よ、ごらん。これらの修行者たちは皆同じ過ちを犯している。彼らは有限の知識で無限の宇宙を理解しようとしているのだ。彼らは世界の本質が、有辺や無辺といった概念を超えていることに気づいていない。」
仏陀は結論づけました。「真の智慧とは、私たちの認知が有限であることを理解し、世界の本質は単純な概念では定義できないことを知ることなのだ。私たちは謙虚で開放的な心を保ち、性急に結論を下すのではなく、絶えず学び探究し続けるべきである。」
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、知見の中に於いて計度を生ずる者は、この人は四種顛倒、不死矯乱遍計虚論に墜ち入る。
仏陀は続けて、修行者が遭遇する可能性のある落とし穴について語りました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、ある修行者は三摩地の中で、心意が堅定し、悪魔に惑わされることはない。彼らは生命の根源を深く探究し、あの微妙で清浄かつ常に揺動している本源を観察する。しかし、彼らが自分の知見について推測を始めるとき、『四種顛倒(四つの転倒した見解)』の落とし穴に落ち、奇妙で混乱した考えを生み出してしまうのだ。」
一つには、その人は変化の元を観じ、変遷し流れる処を見てこれを名づけて変とし、相相続する処を見てこれを名づけて恒とし、見る所の処を見てこれを名づけて生とし、見ざる処を見てこれを名づけて滅とし、相続の因、性絶えざる処を名づけて増とし、正相続の中(うち)、中(なか)に離るる処を名づけて減とし、各各生ずる処、これを名づけて有とし、互互に亡ずる処、これを名づけて無とする。理を以て都(すべ)て観じ心を用い別に見て、法を求むる人有りて来てその義を問わば、答えて言うには「我は今、亦た生まれ亦た滅し、亦た有り亦た無し、亦た増し亦た減ず」と。一切の時に於いて皆その語を乱し、彼の前の人をして章句を遺失せしむ。
第一の転倒した見解:
仏陀は説明しました。「ある修行者は事物の変化を観察し、流動するものを『変』と呼び、持続するものを『恒』と呼んだ。見えるものを『生』、見えないものを『滅』と呼んだ。彼らはまた、『増』、『減』、『有』、『無』などの概念を作り出した。誰かが彼らに質問に来ると、彼らの答えはいつも混乱していて、『生でもあり滅でもある』、『有でもあり無でもある』、『増でもあり減でもある』などと言い、質問者を完全に混乱させてしまう。」
二つには、その人は諦(あきら)かにその心を観じ、互互に無き処、因(よ)りて無を証し得たり。人有りて来たり問わば、唯だ一字を答えて、但だその「無」を言い、無の余は言説する所無し。
第二の転倒した見解:
仏陀は続けました。「またある修行者たちは、自分の心を仔細に観察し、多くのものが存在しないと発見した。そこで、誰かが質問に来ても、彼らはただ『無』と言うだけで、それ以外は何も言わないのだ。」
三つには、その人は諦かにその心を観じ、各各に有る処、因りて有を証し得たり。人有りて来たり問わば、唯だ一字を答えて、但だその「是(ぜ)」を言い、是の余は言説する所無し。
第三の転倒した見解:
仏陀は言いました。「さらにある修行者たちは、自分の心を観察し、多くのものが存在すると発見した。そこで、誰かが質問に来ても、彼らはただ『是(あり)』と言うだけで、それ以外は何も言わないのだ。」
四つには、その人は有無を倶(とも)に見、その境が枝(わか)れるが故にその心も亦た乱る。人有りて来たり問わば、答えて言うには「亦た有るは即ち是れ亦た無く、亦た無きの中は是れ亦た有るならず」と。一切矯乱して窮詰(きゅうきつ)を容れず。この矯乱虚無を計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第五の外道、四顛倒性、不死矯乱遍計虚論とする。
第四の転倒した見解:
仏陀は言いました。「最後に、ある修行者たちは、『有』と『無』を同時に見て、その結果自分自身を混乱させてしまった。誰かが質問に来ると、彼らの答えは非常に混乱しており、『有るということは無く、無いということは有るということではない』などと言い、全く理解不能なことを言うのだ。」
仏陀はため息をつきました。「これらの人々はこのような誤った推測のために、混乱して虚妄な考えを生み出した。その結果、彼らは方向を見失い、正しい智慧を失って外道となった。これが第五の外道の四顛倒性であり、彼らは奇妙で混乱した考えを生み出したのだ。」
仏陀は立ち止まり、穏やかに阿難を見て言いました。「阿難よ、ごらん。これらの修行者たちは皆同じ過ちを犯している。彼らは自分の推論に過度に依存し、真実の体験を無視しているのだ。真の智慧は複雑な概念や極端な観点から来るのではなく、現実への直接的な理解と体験から来るものだ。私たちは開放的な心を保ち、自分の考えに縛られてはならない。」
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、無尽流に於いて計度を生ずる者は、この人は死後有相発心顛倒に墜ち入る。或いは自ら身を固めて云く「色は是れ我なり」、或いは我は円にして遍く国土を含むを見て云く「我有り色なり」、或いは彼(外界)の前縁が我に随いて回復するを見て云く「色は我に属す」、或いは復た我が依する行中の相続を見て云く「我は色に在り」と。皆計度して言うには「死後に相有り」と。かくの如く循環して十六相有り。此より惑いて畢竟煩羅、畢竟菩提を計り、両性並び駆けて各各相触れずとす。この死後有るを計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第六の外道、五陰中死後有相心顛倒論を立つとする。
仏陀は続けて、修行者が遭遇する可能性のある落とし穴について語りました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、ある修行者は三摩地の中で、心意が堅定し、悪魔に惑わされることはない。彼らは生命の根源を深く探究し、あの微妙で清浄かつ常に揺動している本源を観察する。しかし、彼らが生命の無尽の流転について考え始めるとき、いくつかの奇妙な考えを生み出してしまうのだ。」
「第六の外道:死後有相論」
仏陀は説明しました。「ある修行者は死後も何らかの形態が存在し続けると考えた。彼らは様々な考えを持っている。例えば:」
- 「私の身体こそが私自身である」
- 「私の存在は全土を含んでいる」
- 「外界の一切は私に従っている」
- 「私は身体の中に存在している」
「これらの考えには合計で十六種類の変化がある。彼らは煩悩と菩提は並存し、互いに干渉しないと考える。このような誤った考えのために、彼らは正しい智慧を見失い、外道となったのだ。」
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、先に色・受・想を除滅せる中に於いて計度を生ずる者は、この人は死後無相発心顛倒に墜ち入る。その色の滅を見て形は因とする所無く、その想の滅を観て心は繫がる所無く、その受の滅を知りて後に連綴無く、陰性は銷散す。縦(たと)い生理有るも受想無くして草木と同じければ、この質現前するも猶お得べからず、死後云何んぞ更に諸相有らんや?これに因りて勘校(かんこう)するに死後相無し。かくの如く循環して八無相有り、ここより或いは涅槃・因果は一切皆空、徒らに名字有るのみにして究竟断滅なりと計る。この死後無きを計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第七の外道、五陰中死後無相心顛倒論を立つとする。
「第七の外道:死後無相論」
仏陀は続けました。「またある修行者たちは、色・受・想がいずれも消滅することを観察し、死後は何も存在しないと考えた。彼らの考えは次のようだ:」
- 「身体が消滅すれば、存在の根拠もなくなる」
- 「想念が消滅すれば、心は依り所を失う」
- 「感受が消滅すれば、連続性がなくなる」
「彼らは、たとえ生命があっても、感受や想念がなければ草木と同じだと考える。現在ですらこれらのものが見当たらないなら、死後に存在するはずがないと。このような考えには八種類の表現がある。彼らは涅槃や因果でさえも空であり、ただ名前があるだけで実体はないと考えるに至る。このような誤った考えのために、彼らもまた正しい智慧を見失い、外道となったのだ。」
仏陀は立ち止まり、穏やかに阿難を見て言いました。「阿難よ、ごらん。これらの修行者たちは皆同じ過ちを犯している。彼らは死後何が起こるかということに過度に執着し、現在の修行をおろそかにしている。ある者は死後も存在が続くと考え、ある者は死後は何もないと考える。しかし、真の智慧は未知のことへの推測から来るのではなく、現実への直接的な理解と体験から来るものだ。」
仏陀は結論づけました。「覚えておきなさい。生命の真相はこれらの概念を超えているのだ。私たちはこれらの概念に縛られるべきではなく、生命の本質を悟るよう努力すべきだ。重要なのは私が今どう生きるか、どう修行するかであり、死後のことに過度に関心を寄せることではない。」
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、行(ぎょう)の存する中に於いて兼ねて受・想の滅するを受け、有無を双計して自体相破れ、この人は死後倶非起顛倒論に墜ち入る。色・受・想の中に於いて有と非有を見、行の遷流の内に於いて無と不無を観る。かくの如く循環して陰界を窮め尽くし、八倶非相に随いて一縁を得て、皆死後有相無相と言う。また諸行の性は遷り訛るが故に、心は通悟を発し有無倶非にして虚実は措(お)くを失うと計る。この死後倶非、後際は昏瞢(こんぼう)して道(い)うべき無きを計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第八の外道、五陰中死後倶非心顛倒論を立つとする。
仏陀は続けて、修行者が遭遇する可能性のある落とし穴について語りました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、修行の中で迷った人々について話し続けよう。」
「第八の外道:死後倶非論」
仏陀は説明しました。「ある修行者たちは、行陰はまだ存在するが、受陰と想陰はすでに消滅していることを観察した。彼らは存在と非存在を同時に考え始め、その結果混乱してしまった。彼らの考えはこうだ:」
- 「色・受・想の中に於いて、彼らは有でもあり非有でもあると見る」
- 「行の流転の中に於いて、彼らは無でもあり非無でもあると見る」
「このような矛盾した考えには八種類の表現がある。彼らは死後は有相でもなく無相でもないと言う。すべてが変化しているのを見て、彼らは有でもなく無でもなく、虚幻でもなく真実でもないと考えた。死後の状態を確定できないため、彼らは正しい智慧を見失い、外道となったのだ。」
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、後後の無生に於いて計度を生ずる者は、この人は七断滅論に墜ち入る。或いは身滅を計り、或いは欲尽滅、或いは苦尽滅、或いは極楽滅、或いは極捨滅を計る。かくの如く循環して七際を窮め尽くし、現前銷滅し滅して已(すで)に復(また)無しとする。この死後断滅を計度するに由りて、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第九の外道、五陰中死後断滅心顛倒論を立つとする。
「第九の外道:死後断滅論」
仏陀は続けました。「またある修行者たちは、死後はすべてが断滅してしまうと考えた。彼らには七種類の異なる考えがある:」
- 「身体が滅すれば何も残らない」
- 「欲望が尽きれば何も残らない」
- 「苦痛が尽きれば何も残らない」
- 「極楽が尽きれば何も残らない」
- 「極度の捨離の後には何も残らない」
「彼らは、現在見えるものはすべて消滅し、消滅した後は二度と存在しないと考えた。このような誤った考えのために、彼らもまた正しい智慧を見失い、外道となったのだ。」
仏陀は立ち止まり、穏やかに阿難を見て言いました。「阿難よ、ごらん。これらの修行者たちは皆同じ過ちを犯している。彼らは死後何が起こるかということに過度に執着し、当下の修行を無視している。ある者は死後は存在でも非存在でもないと考え、ある者は死後はすべてが断滅すると考える。しかし、真の智慧は未知のことへの推測から来るのではなく、現実への直接的な理解と体験から来るものだ。」
仏陀は結論づけました。「覚えておきなさい。生命の真相はこれらの概念を超えているのだ。私たちはこれらの考えに縛られるべきではなく、当下の修行に専念すべきだ。重要なのは私たちが如何に現在を生きるか、如何に生命の本質を理解し体験するかであり、死後のことに過度に関心を寄せることではない。」
また三摩の中の諸々の善男子は、正心を堅く凝らし、魔も便りを得ず、生類の根本を窮める。あの幽清で常に擾動する元を観て、後後の有る生に於いて計度を生ずる者は、この人は五涅槃論に墜ち入る。或いは欲界を以て正転依と為し、円明の生じて愛慕を生ずるを観見するが故に。或いは初禅を以て性憂い無きが故に、或いは二禅を以て心苦こと無きが故に、或いは三禅を以て極めて悦び随うが故に、或いは四禅を以て苦楽二つ亡じ、輪廻生滅の性を受けざるが故に。有漏の天に迷いて無為の解を作(な)し、五処の安隠を以て勝浄の依と為す。かくの如く循環して五処を究竟とし、此より五現涅槃を計度して、外道に堕落し、菩提性を惑わす。これを名づけて第十の外道、五陰中五現涅槃心顛倒論を立つとする。
仏陀は続けて講述しました、修行者が遭遇する可能性のある最後の落とし穴について:
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、今度は第十の外道について話そう。」
「第十の外道:五種現前涅槃論」
仏陀は説明しました。「ある修行者たちは、現世において涅槃に到達できると考えた。彼らには五種類の異なる考えがある:」
- 「ある者は欲界を涅槃と見なした。なぜなら彼らは美しい事物を見て愛慕を生じたからだ。」
- 「ある者は初禅を涅槃と見なした。なぜならそこには憂いがないからだ。」
- 「ある者は二禅を涅槃と見なした。なぜならそこには苦しみがないからだ。」
- 「ある者は三禅を涅槃と見なした。なぜならそこは喜びに満ちているからだ。」
- 「ある者は四禅を涅槃と見なした。なぜならそこには苦も楽もなく、生死輪廻の影響を受けないからだ。」
「これらの人々は、有漏(うろ)の天界を無為法と誤解し、これら五つの場所を清浄な依り所とした。彼らは現世で涅槃に到達できると考え、そのために正しい智慧を見失い、外道となったのだ。」
阿難よ、斯(か)くの如き十種の禅那の狂解は、皆是れ行陰用心交互するが故に斯の如き悟りを現ず。衆生頑迷にして自ら忖量(そんりょう)せず、此に逢いて現前するに迷いを以て解と為し、自ら聖に登ると言い、大妄語を成して、無間獄に堕つ。汝等必ず如来の心を将(も)って、我が滅後に於いて末法に伝示し、遍く衆生をして斯の義を覚了せしめよ。心魔をして自ら深孽(しんげつ)を起こさしむること無く、保持し覆護して、邪見を消息し、その身心をして真義を開覚せしめよ。無上道に於いて枝岐(しき)に遭わず、心を祈らせて少なきを得て足れりと為さず、大覚王の清浄の標指となれ。
仏陀は立ち止まり、厳粛に阿難を見て言いました。「阿難よ、これら十種の禅定における誤った理解は、すべて行陰の作用によって生じた幻覚である。愚かな衆生は正しく判断できず、これらの境界に出会って悟りを得たと思い込み、甚だしくは自分が聖者になったと宣言する。これは大妄語であり、彼らを無間地獄に堕とすことになる。」
仏陀は心を込めて言いました。「阿難よ、私が涅槃に入った後、お前たちは必ず如来の心意を末法の世の衆生に伝えなければならない。すべての衆生にこれらの道理を理解させ、心魔によって深い罪業を作らせてはならない。彼らを守り、邪見を取り除き、真の道理を理解させよ。無上の道を求める過程で岐路に迷い込ませず、わずかな成就で満足させてはならない。彼らを大いなる覚悟の王とし、清浄な手本となるようにせよ。」
仏陀は最後に言いました。「覚えておきなさい、阿難。真の涅槃は特定の境界や場所にあるのではない。それはこれらすべての概念を超越しているのだ。私たちの目標は特定の体験を追求することではなく、生命の本質を徹底的に理解し、すべての執着と幻覚から脱することにある。これこそが真の解脱の道である。」
阿難よ、彼の善男子の三摩提を修して行陰尽きたる者は、諸の世間の性の幽清にして擾動する、同分の生機倏然(しゅくぜん)として堕裂す。沈細の綱紐(こうちゅう)、補特伽羅(プドガラ)の酬業の深脈、感応懸絶す。涅槃天に於いて将に大明悟せんとし、鶏の後鳴の東方瞻顧(せんこ)すれば已に精色有るが如し。六根虚静にして復た馳逸すること無く、内外湛明にして入無所入なり。十方十二種類の受命の元由(げんゆ)に深く達し、由を観じ元を執(と)るも諸類召さず。十方界に於いて已にその同を獲、精色は沈まず幽秘を発現す、此れを則ち名づけて識陰区宇と為す。若し群召に於いて已に同を獲る中、六門を銷磨し合開成就し、見聞通隣し互用清浄ならん。十方世界及び身心と、吠瑠璃(ベイルリ)の如く内外明徹なるを、識陰尽と名づく。この人は則ち能く命濁を超越す。その由る所を観るに罔象虚無にして、顛倒妄想を以てその本と為す。
仏陀は続けて、修⾏のさらに深い段階について語りました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、今度は行陰が尽きた善男子について話そう。」
「修行者の行陰が尽きると、世間の一切の微妙で清浄だが擾動する性質は、突然糸がきれたように消え失せる。それら深細な生命のつながり、因果業報の深い脈絡は、突然断ち切られる。」
仏陀の眼は智慧の光で輝いていました。「この時、修行者はまさに涅槃の真諦を悟ろうとしている。あたかも鶏が鳴く前の暁に、東の空がすでに白んでいるかのようだ。」
「彼の六根は静まり返り、もはや外に向かって走り回ることはない。内も外も澄み渡り、入るところ無きに入る。彼は十方世界の十二種の衆生の生命の根源を深く理解し、いかなる衆生の類からも召喚を受けなくなる。」
仏陀は続けました。「十方世界において、彼はすでに同一性を獲得しており、精妙な色相は沈むことなく、隠された秘密が現れる。これが識陰の領域である。」
「もし彼がこの同一性の中で六根を融合させ、相互に通じ合わせ、清浄無礙にすることができれば、十方世界と彼自身の身心は、瑠璃のように内外透明になるだろう。これが識陰が尽きた状態である。この時、彼は命濁(みょうじょく)を超え、一切の虚幻で顛倒した妄想の本質を見抜くことができるのだ。」
阿難よ、当に知るべし、この善男子諸行の空を窮め、識に於いて元に還り已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。能く己が身の根をして隔てを合開せしめ、亦た十方の諸類と通覚し、覚知通淴(つうこつ)として能く円元に入る。若し帰する所に於いて真常の因を立て勝解を生ずる者は、この人は則ち因所因執に堕つ。娑毘迦羅(サピカラ)の帰する所の冥諦、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第一の所得の心を立て、成所帰の果とし、円通に違遠し、涅槃城に背き、外道の種を生ずとなす。
仏陀は少し間を置き、厳粛に阿難を見て言いました。「しかし、阿難よ、覚えておきなさい。たとえこの段階まで修行し、生滅を滅したとしても、寂滅の精妙な境界においてはまだ円満ではないのだ。」
「この時、修行者は自分の身体を外界と通じさせ、十方のあらゆる衆生の覚知とも通じ合い、円融な本源に入ることができる。しかし、もし彼がこの段階で何か永遠不変の原因に執着し、それが究極の真理だと思い込めば、彼は『因所因執』に陥ってしまう。」
仏陀は心を込めて言いました。「そのような人は、あの冥諦(めいたい)を説く娑毘迦羅(サピカラ)のようになり、仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまう。これが第一の執着であり、円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかり、かえって外道の種を生むことになるのだ。」
仏陀は結論づけました。「だから、阿難よ。修行の道においては、たとえ高い境界に至っても、まだ落とし穴があるのだ。私たちは常に警戒を怠らず、いかなる境界や見解にも執着することなく、最終的な円満に至るまで超越を続けなければならない。」
阿難よ、また善男子諸行の空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。若し帰する所に於いて覧じて自体と為し、尽虚空界十二類の内にある一切衆生は、皆我が身中一類より流出するとして勝解を生ずる者は、この人は則ち能非能執に堕つ。摩醯首羅(マケイシュラ)の無辺身を現じ、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第二の能の為の心を立て、成能事の果とし、円通に違遠し、涅槃城に背き、大慢天の我遍円の種を生ずとなす。
仏陀は続けて、修行者が遭遇する可能性のあるさらなる落とし穴について語りました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、行陰を超え、生滅を滅したが、まだ寂滅の精妙な境界に達していない修行者について話し続けよう。」
「第二の落とし穴:能非能執」
仏陀は説明しました。「ある修行者は、全宇宙とすべての衆生は自分の身体から流出したものだと考える。彼らは『私は一切の源であり、私は一切を創造できる』と考える。これが『能非能執』の落とし穴である。」
仏陀はため息をつきました。「そのような人は、無辺身を現す摩醯首羅(マケイシュラ)のようになり、仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまう。これが第二の過ちであり、彼らは自分の能力に執着し、円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかり、かえって自分が一切に遍満すると考える大慢天の種を生むことになるのだ。」
また善男子諸行の空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。若し帰する所に於いて帰依する所(もの)有りとし、自ら身心は彼より流出すると疑い、十方虚空も咸(みな)其より起こるとする。即ち都(すべて)起こりて宣流する地に於いて、真常の身無生滅の解を作(な)す。生滅の中に在りて早く常住を計り、既にお不生に惑い亦た生滅に迷い、沈迷に安住して勝解を生ずる者は、この人は則ち常非常執に堕つ。自在天を計りてその伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第三の因依の心を立て、成妄計の果とし、円通に違遠し、涅槃城に背き、倒円の種を生ずとなす。
「第三の落とし穴:常非常執」
仏陀は続けました。「またある修行者たちは、自分の身心はある源から流出したものであり、全宇宙もそこから生じたのではないかと疑う。彼らはその源を永遠不変のものと見なし、自分はすでに生死を超えたと考える。」
仏陀の眼には憐憫の色が浮かんでいました。「これらの人々は生滅の中にありながら、永遠を見つけたと誤認し、不生を理解せず、生滅をも理解していない。彼らはその迷いの中に安住し、誤った理解を生じている。これが『常非常執』の落とし穴である。」
「そのような人は、自在天を信仰する人々のようになり、仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまう。これが第三の過ちであり、彼らはある永遠の源に執着し、円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかり、かえって転倒した種を生むことになるのだ。」
仏陀は立ち止まり、穏やかに阿難を見て言いました。「阿難よ、ごらん。たとえ高い境界まで修行しても、これほど多くの落とし穴があるのだ。だからこそ、私たちは絶えず警戒を保ち、いかなる境界や見解にも執着してはならないのだ。」
仏陀は結論づけました。「真の修行とは、何か特殊な能力を得ることでもなく、何か永遠不変のものを見つけることでもない。一切の本質をはっきりと見極め、執着せず、惑わず、開放的で清明な心を保つことである。これこそが真の解脱へと通じる道なのだ。」
また善男子諸行の空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。若し知る所に於いて遍く円なりと知るが故に、知に因りて解を立て、十方の草木も皆有情と称して人と異ならずとす。草木は人と為り人は死して還って十方の草樹と成るとし、択(えら)び無く遍知して勝解を生ずる者は、この人は則ち知無知執に堕つ。婆吒(バタ)の霰尼(センニ)、一切の覚を執する者、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第四の円知の心を計り、虚謬の果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、倒知の種を生ずとなす。
仏陀は続けて、修行者が遭遇する可能性のあるさらなる落とし穴について語りました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、行陰を超え、生滅を滅したが、まだ寂滅の精妙な境界に達していない修行者について話し続けよう。」
「第四の落とし穴:知無知執」
仏陀は説明しました。「ある修行者は自分の知識はすでに一切に遍満していると考える。彼らは『十方の草木はすべて人と同様に感情を持っており、人は死んで草木になり、草木もまた人になる』と考える。彼らは自分が一切について全知の理解を持っていると思い込むのだ。」
仏陀は首を横に振りました。「そのような人は、一切に覚知があると執着する婆吒(バタ)・霰尼(センニ)のようになり、仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまう。これが第四の過ちであり、彼らは自分の知識に執着し、虚妄の結果を生み、円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかり、かえって転倒した知識の種を生むことになるのだ。」
また善男子諸行の空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。若し円融して根互用する中に於いて已に随順を得て、便ち一切発生を円化す。火の光明を求め、水の清浄を楽しみ、風の周流を愛し、塵の成就を観じ、各各崇事して此の群塵を以てす。本因を発作して常住の解を立つるは、この人は則ち生無生執に堕つ。諸の迦葉波(カショウハ)並びに婆羅門、心を勤め身を役して火に事(つか)え水を崇め、生死を出でんことを求めてその伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第五の崇事を計著し、心物に従いて妄りに因を求めて迷い、妄りに果を冀(こいねが)い、円通に違遠し、涅槃城に背き、顛化の種を生ずとなす。
「第五の落とし穴:生無生執」
仏陀は続けました。「またある修行者たちは、六根互用の境界でいくつかの体験を得て、自然界の様々な元素を崇拝し始める。ある者は火を拝み、ある者は水を拝み、ある者は風を拝み、ある者は土を拝む。彼らはこれらの元素を永遠の本源と見なすのだ。」
仏陀の眼には憐憫の色が浮かんでいました。「これらの人々は迦葉波(カショウハ)や一部のバラモンのように、懸命に火や水を拝んで生死を逃れようとする。彼らは『生無生執』の落とし穴に落ち、仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまう。」
仏陀は結論づけました。「これが第五の過ちであり、彼らは外物の崇拝に執着し、心を物質の中に迷わせ、誤った因を立てて虚妄の果を求めている。これは円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかり、かえって転倒し変化する種を生むことになるのだ。」
仏陀は立ち止まり、穏やかに阿難を見て言いました。「阿難よ、ごらん。修行の道にはこれほど多くの落とし穴があるのだ。ある者は知識に執着し、ある者は自然現象に執着する。しかし真の智慧は知識の蓄積や外物の崇拝から来るのではなく、生命の本質への直接的な理解から来るものだ。」
仏陀は結論づけました。「真の修行とは、これらすべての執着や偏見を超越し、開放的で清明な心を保つことである。いかなる境界や見解にも惑わされることなく、生命の真相を直接体得すること。これこそが真の解脱へと通じる道なのだ。」
また善男子諸行の空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。若し円明に於いて明の中は虚なりと計り、群化を滅するに非ずして永滅を以て依と為し、帰依する所と為して勝解を生ずる者は、この人は則ち帰無帰執に堕つ。無想天の中の諸の舜若多(シュニャタ)、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第六の円虚無心、空亡の果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、断滅の種を生ずとなす。
仏陀は続けて、修行者が遭遇する可能性のあるさらなる落とし穴について語りました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、行陰を超え、生滅を滅したが、まだ寂滅の精妙な境界に達していない修行者について話し続けよう。」
「第六の落とし穴:帰無帰執」
仏陀は説明しました。「ある修行者は円明の境界において、一切は虚無であると考える。彼らは一切の現象を滅ぼすのではなく、永遠の滅を自分たちの依り所(寄る辺)とするのだ。」
仏陀は首を横に振りました。「そのような人は無想天の天人たちのようになり、仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまう。これが第六の過ちであり、彼らは虚無に執着し、空亡の結果を生じ、円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかり、かえって断滅の種を生むことになるのだ。」
また善男子諸行の空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。若し円常に於いて身を固めて常住ならしめ、精円と同じく長く傾逝(けいせい)せざらんとして勝解を生ずる者は、この人は則ち貪非貪執に堕つ。諸の阿斯陀(アシタ)の長命を求むる者、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第七の命元に執着し、固妄の因を立て、長労の果に趣き、円通に違遠し、涅槃城に背き、妄延の種を生ずとなす。
「第七の落とし穴:貪非貪執」
仏陀は続けました。「またある修行者たちは、身体を永遠に常住させようと執着し、精妙で円満な境界と同様に不朽不滅であろうとする。」
仏陀の眼には憐憫の色が浮かんでいました。「これらの人々は不老長寿を求める阿斯陀(アシタ)仙人のようである。彼らは仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまう。これが第七の過ちであり、彼らは生命の本源に執着して誤った因を立て、長く苦労するだけの果報を求めてしまう。これは円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかり、かえって妄りに生命を延ばそうとする種を生むことになるのだ。」
また善男子諸行の空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。命の互通を観じ、却って塵労を留めてその銷尽せんことを恐れ、便ち此の際に於いて蓮華宮に坐し、広く七珍を化し多く宝媛を増し、その心を縦恣(じゅうし)して勝解を生ずる者は、この人は則ち真無真執に堕つ。吒抧迦羅(タキカラ)その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第八の邪思の因を発し、熾塵(しじん)の果を立て、円通に違遠し、涅槃城に背き、天魔の種を生ずとなす。
「第八の落とし穴:真無真執」
仏陀は続けました。「またある修行者たちは、生命が相通じていることを観察したが、塵労(煩悩)が消尽してしまうことを恐れた。そこで彼らは自ら蓮華宮の宮殿に座し、広く七宝を変化させ、多くの美女を増やし、ほしいままに心を放縦することを想像したのだ。」
仏陀はため息をつきました。「そのような人は吒枳迦羅(タキカラ)のような天魔のようである。彼らは仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまう。これが第八の過ちであり、彼らは誤った考えを起こし、熾盛な塵労の果報を求めてしまう。これは円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかり、かえって天魔の種を生むことになるのだ。」
仏陀は立ち止まり、穏やかに阿難を見て言いました。「阿難よ、ごらん。修行の道にはこれほど多くの落とし穴があるのだ。ある者は虚無に執着し、ある者は永遠の生命に執着し、ある者は感覚的な享楽に執着する。しかし真の修行とはこれらを追求することではなく、すべての執着を超越し、生命の真相を直接体得することなのだ。」
仏陀は結論づけました。「真の修行とは、清明な心を保ち、いかなる境界や見解にも惑わされないことである。私たちは生命の真相に直接向き合い、逃避せず、執着しない。これこそが真の解脱に通じる道なのだ。」
また善男子諸行の空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。命明の中に於いて精麁(せいそ)を分別し、真偽を疏決(そけつ)して因果相酬い、唯だ感応を求めて清浄の道に背く。所謂(いわゆる)苦を見、集を断じ、滅を証し、道を修して、滅に居して已(すで)に休(や)み、更に前進せずして勝解を生ずる者は、この人は則ち定性声聞に堕つ。諸の無聞僧・増上慢の者、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第九の精応の心を円(まど)かにし、趣寂の果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、纏空(てんくう)の種を生ずとなす。
「第九の落とし穴:定性声聞」
仏陀の眼差しは人々を見渡し、続けました。「またある修行者たちは、生命の本質を観察する時、精細と粗雑を分別し、真実と虚偽を判断し、因果の相互関係を探求する。彼らはただ感応のみを求め、かえって清浄な道に背いてしまう。」
「これがいわゆる『苦を見、集を断じ、滅を証し、道を修す(四諦)』である。」
仏陀は説明しました。「彼らは寂滅の中に安住し、もはや前進しようとしない。これらの人々は定性声聞の落とし穴に落ちてしまう。彼らは無聞比丘や増上慢の者たちと仲間になり、仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまう。」
仏陀の口調は柔らかくなりました。「これが第九の過ちであり、彼らは精応の心を成就したが、寂滅の果報に向かってしまった。これは円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかり、かえって空に纏(まつ)わる種を生むことになるのだ。」
また善男子諸行の空を窮め已に生滅を滅すれども、寂滅に於いて精妙未だ円ならず。若し円融清浄の覚明に於いて、深妙を発研して即ち涅槃を立て、前進せずして勝解を生ずる者は、この人は則ち定性辟支に堕つ。諸の縁独倫(えんどくりん)、心を回(めぐ)らさざる者、その伴侶と成り、仏菩提に迷い知見を亡失す。是を名づけて第十の円覚淴心(えんかくこつしん)、湛明の果を成し、円通に違遠し、涅槃城に背き、覚円明にして円を化せざる種を生ずとなす。
「第十の落とし穴:定性辟支(定性独覚)」
仏陀はゆっくりと口を開きました。「またある修行者たちは、円融で清浄な覚りの中に於いて、精妙な道理を深く研究する。彼らは直ちに涅槃の境界に達したと宣言し、それ以上前に進もうとしない。」
仏陀の眼差しは座にいる一人一人を見渡しました。「これらの人々は定性辟支仏(独覚)の落とし穴に落ちてしまう。彼らは独りで修行し、大乗に心を回向しない縁覚の修行者たちと仲間になる。」彼の口調には僅かな遺憾が含まれていました。「惜しいことだ、彼らは仏の菩提を見失い、正しい知見を失ってしまうのだから。」
仏陀は結論づけました。「これが第十の過ちであり、彼らは覚りの心を成就したが、ただ湛然として明浄な果位に達したに過ぎない。これは円通の道理に背き、涅槃の城から遠ざかるものである。」
仏陀の声は優しく、無限の慈悲を帯びていました。「彼らは覚りが円明な境界に達したとはいえ、もはや進化せず、円融しない種子を生じてしまった。」そう言うと、仏陀は少し間を置き、座にいる一人一人がこの言葉の意味を深く考えられるようにしました。彼の教えは明かりのように、修行の道にある様々な落とし穴を照らし、衆生を真の覚りの道へと導くのでした。
阿難よ、斯くの如き十種の禅那は中途にして狂となり、因(もと)に依る。或いは未だ足らざる中に於いて満足の証を生ず。皆是れ識陰用心交互するが故に斯の位を生ず。衆生頑迷にして自ら忖量せず、此に逢いて現前するに、各各愛する所を以て、先ず迷心に習い而して自ら休息し、将に畢竟帰する所の寧地(ねいち)と為さんとす。自ら無上菩提を満足すと言い、大妄語にして外道邪魔と成り、感ずる所の業終われば無間獄に堕つ。声聞縁覚は増進を成さず。汝等心を存して如来の道を秉(と)り、この法門を将て我が滅後末世に伝示し、普く衆生をして斯の義を覚了せしめよ。見魔をして自ら沈[卄/(阿-可+辛)/女](ちんりん)を作さしむること無く、保綏(ほすい)し哀救して邪縁を消息し、その身心をして仏知見に入らしめよ。始めより成就に至るまで岐路に遭わざらしめよ。かくの如き法門は先ず過去世、恒沙劫の中の微塵の如来、この心開きに乗じて無上道を得たまえり。識陰若し尽くれば則ち汝が現前の諸根互用し、互用の中より能く菩薩の金剛乾慧(こんごうけんね)に入る。円明の精心その中に於いて発化すること、浄瑠璃の内(うち)に宝月を含むが如し。かくの如くして乃ち十信・十住・十行・十回向・四加行心を超う。菩薩の行ずる所の金剛十地・等覚円明にして、如来の妙荘厳海に入り、菩提を円満して無所得に帰す。此れは是れ過去の先仏世尊、奢摩他中の毘婆舎那(ビバシャナ)、微細魔事を覚明分析せるなり。魔境現前せば汝能く諳識(あんしき)し、心垢を洗除して邪見に落ちざれ。陰魔銷滅すれば天魔摧砕(さいさい)し、大力鬼神魄を褫(うば)われて逃逝(とうせい)し、魑魅魍魎(ちみもうりょう)復た出生せじ。直ちに菩提に至りて諸の少乏無く、下劣増進して、大涅槃に於いて心迷悶(めいもん)せず。若し諸の末世の愚鈍の衆生、未だ禅那を識らず説法を知らず、三昧を修するを楽しみて汝恐らくは邪に同じからん。一心に勧めて我が仏頂陀羅尼呪を持たしめよ。若し誦すること能わざれば禅堂に書き、或いは身に帯せば、一切諸魔動かすこと能わず。汝当に十方如来を恭欽(くぎょう)し、究竟修進して最後に範を垂るべし。
仏陀の眼には尽きることのない智慧と慈悲が輝いていました。彼はあたりを見回し、阿難と座にいる人々に視線を向けました。彼の声は穏やかでありながら確固たるもので、教えを続けました。
仏陀は言いました。「阿難よ、私が先ほど述べたこれら十種の禅定は、すべて修行の途中で遭遇する可能性のある狂乱の原因である。ある人々は、まだ真に円満に達していないのに、証得したと思い込んでしまう。」
仏陀の口調は厳粛になりました。「これらはすべて識陰の作用であり、心念が互いに影響し合って生じる境界である。悲しいことに、多くの愚かな衆生は自らを省みる術を知らず、一旦これらの境界に出会うと、最終的な安息の地に達したと思い込んでしまう。」
彼は首を振り、眼に憐憫の色を浮かべました。「彼らは自ら無上の菩提を証得したと称するが、これは最大の大妄語である。彼らは外道の邪魔となり、最終的には無間地獄に堕ちるだろう。声聞や縁覚でさえ、これによって前進を止めてしまうのだ。」
仏陀の声は柔らかくも力強いものでした。「お前たちは如来の道を心に刻まなければならない。私が涅槃に入った後、この法門を末法の世の衆生に伝え、彼らにこの道理を理解させなさい。」
彼の眼差しは深まりました。「彼らが魔障に遭って自ら堕落することのないようにしなさい。彼らを守り、救い、邪悪な縁を取り除き、彼らの身心が仏の知見に入ることができるようにしなさい。最初から正しい道を歩ませ、岐路に迷い込ませてはならない。」
仏陀は続けました。「この法門は、過去の無数の劫において、すでに無数の如来が無上の道を証得する助けとなってきた。お前の識陰が尽きた時、お前の現前の諸根は互いに用じ合うことができ、そこから菩薩の金剛乾慧(こんごうけんね)の境界に入ることができるのだ。」
彼の声は希望に満ちていました。「お前の円明で精妙な心はその中で変化を発し、あたかも清浄な瑠璃の中に宝月を含むかのようになるだろう。こうして、お前は十信、十住、十行、十回向、四加行心を超越し、菩薩の金剛十地に入り、等覚円明に達し、ついには如来の妙荘厳海に入り、菩提を円満して無所得の境界に帰するのだ。」
仏陀の眼には智慧の光が輝いていました。「これこそが、過去の諸仏が禅定の中で観察した微細な魔事である。魔境が現前した時、お前はそれを見分けなければならない。心の垢を洗い落とし、邪見に落ちてはならない。そうすれば、陰魔は消滅し、天魔は打ち砕かれ、強力な鬼神も魂を奪われて逃げ去り、魑魅魍魎も二度と現れなくなるだろう。」
彼の声は確固として力強いものになりました。「お前は菩提に達するまで、いかなる欠乏も後退もなくなるだろう。大涅槃において、お前の心は迷いも困惑もしなくなる。」
最後に、仏陀は慈愛を込めて阿難を見つめました。「もし末法の世において、愚鈍な衆生が禅定を知らず、説法も知らぬまま三昧を修習することを好むなら、お前は彼らが邪道に落ちることを恐れなければならない。一心に彼らに私の仏頂陀羅尼呪を持つよう勧めなさい。もし誦することができなければ、禅堂に書き記すか、身に帯びさせなさい。そうすれば一切の諸魔は彼らを動かすことができなくなる。」
仏陀の言葉には無尽の慈悲が溢れていました。「お前たちは十方の如来を恭敬し尊び、努力修行して、彼らの最後の教えに従いなさい。」
阿難即ち座より起きて仏の示誨を聞き、頂礼し欽奉して憶持して失せず。大衆の中に於いて重ねて仏に白(もう)さく:「仏の言えるが如く五陰の相の中、五種の虚妄を本想の心と為す。我等平常未だ如来の微細の開示を蒙らず。またこの五陰は併せて銷除するや、次第に尽くすや?是の如き五重は何を詣(いた)りて界と為す?惟願わくば如来大慈を発宣し、この大衆の為に心目を清明にし、以て末世の一切衆生の為に将来の眼と作(な)したまえ。」
阿難は仏陀の教えを聞き終えると、心は畏敬と感謝で満たされました。彼は座から立ち上がり、恭しく仏陀に頂礼し、再び問いかけました。
阿難の声には誠実さがこもっていました。「尊き仏陀よ、貴方は先ほど、五陰の中には五種の虚妄があり、それらはすべて本想の心に源を発しているとおっしゃいました。私たちは普段、如来のこれほど微細な開示を受けたことがありませんでした。」
阿難は少し間を置いて、問い続けました。「この五陰は一度に消除すべきものでしょうか、それとも順序を追って一つずつ取り除くべきものでしょうか?この五重の境界は、一体何を以て境界とするのでしょうか?」
彼の眼には知識への渇望が輝いていました。「願いわくば如来よ、慈悲を以て開示し、私たち大衆のために迷いを取り除き、心眼を明らかにしてください。これは私たちのためだけでなく、末法の世の衆生のため、彼らの未来の眼目となるためでございます。」
仏、阿難に告げたまわく:「精真妙明なる本覚円浄は、死生及び諸の塵垢を留めず、乃至(ないし)虚空も皆妄想に因りて生起する所なり。斯(こ)の元本覚妙明真精、妄りに以て諸の器世間を発生す。演若多(エンニャダ)の頭に迷いて影を認むるが如く、妄元無因なり。妄想の中に於いて因縁の性を立つるも、因縁に迷う者は称して自然と為す。彼の虚空の性すら猶ほ実幻生なり。因縁・自然は皆是れ衆生の妄心の計度なり。阿難よ、妄の起こる所を知りて妄の因縁を説くも、若し妄元無くんば妄の因縁を説くも元無所有なり。何況んや推して自然とするを知らざる者をや。是の故に如来汝と五陰の本因同じく是れ妄想なりと発明す。
仏陀は慈愛を込めて阿難を見つめ、ゆっくりと口を開きました。
仏陀の声は温かくも確固たるものでした。「阿難よ、あの精真で妙明な本覚は本来円満清浄なものであり、生死輪廻や塵世の汚れを留めるべきではない。虚空でさえも、すべては妄想によって生じたものなのだ。」
仏陀の眼差しは深まりました。「この本覚妙明の真精が、妄想によって我々の見る世界を生み出したのだ。あたかも演若多(エンニャダ)が自分の頭を見失い、影を自分だと思い込んだ(※訳注:演若多が鏡の中の自分の頭を見て、自分の頭がなくなったと狂乱した説話)ように、この妄想には根本的な原因などないのだ。」
彼は説明を続けました。「妄想の中で、人々は因縁という概念を作り上げた。因縁を理解しない者は、それを自然と呼ぶ。しかし知るが良い、虚空の本性でさえ幻から生じたものなのだ。因縁であろうと自然であろうと、すべては衆生の妄心の推測に過ぎない。」
仏陀の声は柔らかくなりました。「阿難よ、お前は妄想の由来を知っているから、妄想の因縁を説くことができる。だがもし妄想が本来存在しないなら、いわゆる妄想の因縁もまた存在しないことになる。ましてや因縁を知らず、ただ自然を推崇する者たちにおいておや。」
最後に、仏陀は結論づけました。「だから、私はお前たちに明らかにしよう。五陰の本源は、みな妄想に由来するのだ。」
汝が体は先ず父母の想に因りて生ず。汝が心想ならざれば、則ち想の中に于(おい)て命を伝えること能わず。如し我、先に言えるが如く、心に酢の味を想えば口中に涎が生じ、心に高きに登るを想えば足心に酸(す)っぱさが起こる。懸崖有らず酢物未だ来らざるに、汝が体必ず虚妄の通倫に非ずんば、口水如何ぞ酢を談ずるに因りて出ずる?是の故に当に知るべし、汝が現前の色身は、名づけて堅固第一妄想と為す。即ち此の説く所の高きに臨む想心、能く汝が形をして真に酸渋(さんじゅう)を受けしむ。受生に因りて能く色体を動かすに由りて、汝今現前に順益・違損の二つ現に駆馳するを、名づけて虚明第二妄想と為す。由汝念慮使汝色身,身非念倫汝身何因,隨念所使種種取像。心生形取與念相應,寤即想心寐為諸夢。則汝想念搖動妄情,名為融通第三妄想。化理不住運運密移,甲長髮生氣銷容皺。日夜相代曾無覺悟。阿難,此若非汝云何體遷?如必是真汝何無覺?則汝諸行念念不停,名為幽隱第四妄想。又汝精明湛不搖處名恒常者,於身不出見聞覺知。若實精真不容習妄,何因汝等曾於昔年覩一奇物,經歷年歲憶忘俱無,於後忽然覆覩前異,記憶宛然曾不遺失。則此精了湛不搖中,念念受熏有何籌算?阿難當知此湛非真,如急流水望如恬靜,流急不見非是無流。若非想元寧受想習?非汝六根,互用合開此之妄想無時得滅。故汝現在見聞覺知中串習幾,則湛了內罔象虛無,第五顛倒細微精想。
仏陀の眼差しは穏やかに人々を掃過し、教えを続けました。
仏陀はゆっくりと口を開きました。「阿難よ、お前の身体は最初、父母の妄想によって生まれたのだ。もしお前の心に妄想がなければ、この世界に来て、妄想の中で生命を伝えることはできなかっただろう。」
仏陀は生き生きとした比喩で説明しました。「私が以前言ったように、心に酢の味を思えば口の中に唾がわき、高い所に登ることを想像すれば足の裏がすくむようなものだ。」
彼の声には智慧の光が帯びていました。「懸崖など本来存在せず、酢も目の前にない。しかし、お前の身体は実際に反応を起こした。もしお前の身体が妄想によって構成されたものでないなら、なぜ単に酢の話をしただけで、口の中に唾液が分泌されるのか?」
仏陀の口調は厳粛になりました。「だから理解しなければならない。お前の現在の色身(肉体)は、すなわち第一の堅固な妄想であるということを。」
彼は説明を続けました。「先ほど述べた高い所に立っているという空想は、お前の身体に実際に酸っぱく痺れるような感覚を生じさせる。このような感受によって色身を動かすことができる現象、これを第二の虚明な妄想と呼ぶ。」
仏陀の声は優しくなりました。「お前の思考は色身を支配することができるが、身体そのものは思考と同じ類のものではない。では、なぜお前の身体は思考の指示に従って様々な形をとるのか?これが第三の融通の妄想である。」
彼の眼差しは深まりました。「生命の変化は絶え間なく続いている。爪は伸び、髪は生え、気力は衰え、容貌は老いていく。昼夜入れ替わっても、お前はそれに気づくことさえない。阿難よ、もしこれが『お前』でないなら、なぜお前の身体は変化するのか?もしこれが本当に『お前』であるなら、なぜお前はその変化に気づかないのか?これが第四の幽隠の妄想である。」
仏陀は続けました。「お前は、この精明で湛然として動じない部分を常住不変のものと考えているが、それは見聞覚知の範囲を出るものではない。もしそれが本当に真実の精華であるなら、なぜ妄想の影響を受けるのか?なぜお前は何年も前に見た奇妙な事物を、長い歳月を経ても忘れ去ることなく、後になって突然思い出し、記憶が鮮明なままであるのか?この一見湛然として動じない精明さも、実は絶えず影響を受けているのだ。阿難よ、知るが良い。この湛然さは真実ではない。あたかも急流の水面が静止しているように見えても、実際には流れていないわけではないのと同様だ。」
最後に、仏陀は結論づけました。「もし妄想が根源でなかったなら、どうして妄想の習気を受け入れることができようか?この妄想はお前の六根から来るのではなく、六根の相互作用によって生じるものだ。この妄想が存在する限り、決して滅することはできない。したがって、お前の現在の見聞覚知の中は、すべてこの習気で満たされている。これが第五の転倒し微細な妄想である。」
仏陀の教えは清涼な甘露のように、人々の心を潤し、生命の本質に対するより深い理解をもたらしました。
阿難よ、是の五受陰は五妄想より成る。汝今因界の浅深を知らんと欲せば、唯だ色と空とは是れ色の辺際(へんざい)、唯だ触と離とは是れ受の辺際、唯だ記と忘とは是れ想の辺際、唯だ滅と生とは是れ行の辺際、湛入して湛に合するは識の辺際に帰す。この五陰の元は重畳して生起す。生ずるは識に因りて有り、滅するは色より除く。理は則ち頓悟して、悟りに乗じて併せて銷っするも、事は頓には除かれず、因(ちな)みに次第して尽くす。我已に汝に劫波(カルパ)の巾(きぬ)の結(むすぼれ)を示せり、何の不明なる所ありてか再此(ふたた)び詢問(じゅんもん)する。汝応にこの妄想の根元を将て心に開通を得、伝えて将来末法の中の諸の修行者に示し、虚妄を識り深く厭(いと)い自ら生じ、涅槃有るを知りて三界を恋わらざらしめよ。」
仏陀の眼差しは慈愛を込めて人々を掃過し、教えを続けました。
仏陀は穏やかに言いました。「阿難よ、これら五種の受陰はすべて五種の妄想によって形成されたものだ。もしそれらの浅深の境界を知りたいと願うなら、私が説明しよう。」
仏陀は根気強く説明しました。「色陰の境界は色と空の間にあり、受陰の境界は触と離の間にあり、想陰の境界は記憶と忘却の間にあり、行陰の境界は生と滅の間にあり、識陰の境界は湛然として合湛に入るところにある。」
彼の声は深みを増しました。「これら五陰は本来、層をなして重なり合って生じたものだ。生じる時は識によって生じ、滅する時は色から順に除かれていく。」
仏陀の眼には智慧の光が輝いていました。「理の上では頓悟(とんご)することができ、悟れば一挙に消除できる。しかし事(じ)の上では頓に除くことはできず、次第を追って尽くしていかねばならない。」
彼は優しく諭しました。「私はすでに劫波の巾(きぬ)の結び目とその解き方でお前に示したはずだ。何が不明で、再び問い尋ねるのか?」
仏陀の口調は厳粛かつ慈悲深いものでした。「お前はこの妄想の根源を徹底的に理解し、それを未来の末法の世の修行者たちに伝えなさい。彼らに虚妄の本質を認識させ、心の底から厭離(おんり)の念を生じさせ、涅槃が存在することを知って、もはや三界に執着しないようにさせなさい。」
阿難よ、若し復た人有りて、十方に遍満する所有の虚空に七宝を盈満し、持ちて以て微塵の諸仏に奉上し、承事供養して心虚しく度(わた)ること無からん。意に於いて云何?この人此れを以て仏に施す因縁、福を得ること多きや不(いな)や?
こう言い終えると、仏陀は少し間を置き、一つの問いを投げかけました。「阿難よ、もしある人が十方世界のすべての虚空を七宝で満たし、それらを無数の諸仏に奉り、心から供養して少しも怠ることがなかったとしよう。お前はどう思うか?この人が仏を供養した因縁によって得る福徳は多いだろうか?」
阿難答えて言わく:「虚空は無尽にして珍宝も無辺なり。昔衆生有りて仏に七銭を施し、身を捨てて猶ほ転輪王の位を獲たり。況や復た現前虚空既に窮まり、仏土充遍して皆珍宝を施すをや。窮劫思議するも尚ほ及ばず、この福云何ぞ更に辺際有らんや?」
阿難は仏陀の問いを聞くと、少し考え込み、恭しく答えました。
阿難の声は畏敬に満ちていました。「世尊よ、虚空は無尽であり、珍宝も無辺でございます。私が聞くところによれば、かつて仏にわずか七銭を布施した衆生が、身を捨てた後に転輪聖王の位を得たといいます。ましてや今、無尽の虚空を満たすほどの珍宝を、あらゆる仏土に遍く施すのですから。」
阿難の眼には智慧の光が輝いていました。「たとえ一劫の時間をかけて考えたとしても、その福徳の大きさには及びません。そのような福報に、どうして限界などありましょうか?」
仏、阿難に告げたまわく:「諸仏如来は語に虚妄無し。若し復た人有りて身に四重・十波羅夷を具し、瞬息にして即ち此方他方の阿鼻地獄を経て、乃至窮尽し、十方の無間、歴(へ)ざること無からん。能く一念を以てこの法門を将(も)って、末劫の中に於いて未学に開示せば、この人は罪障応念して銷滅し、その受く所の地獄の苦因を変じて安楽国と成さん。福を得ること前の施人(せにん)に超越すること、百倍千倍千万億倍、是の如く乃至算数譬諭も及ばざる所なり。阿難よ、若し衆生有りて能くこの経を誦し能くこの呪を持たば、我が広説するが如く窮劫にも尽きじ。我が教言に依りて教の如く道を行ぜば、直ちに菩提を成して復た魔業無からん。」
仏陀は阿難の答えを聞くと、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開きました。
仏陀の声は温かくも確固たるものでした。「阿難よ、諸仏如来の言葉に虚妄はない。お前にもっと不可思議なことを教えよう。」
仏陀の眼差しは深まりました。「もしある人が四重禁戒や十波羅夷罪(重罪)を犯し、瞬く間に此方や他方のあらゆる阿鼻地獄を経て、十方の無間地獄を余すところなく経験すべき定めにあったとしても。」
仏陀の口調は急に明るくなりました。「もしその人が、わずか一念の間でも、末法の世において未だ学ばざる人々にこの法門を開き示すことができれば、その人の罪障は念に応じて消滅するだろう。そればかりか、彼が受けるはずだった地獄の苦因は、安楽国へと変じるのだ。」
仏陀の眼には智慧の光が輝いていました。「その人が得る福徳は、先ほどの七宝を布施した人を遥かに超えている。百倍、千倍、千万億倍どころか、算数や譬喩でも及ばないほどである。」
最後に、仏陀は慈愛を込めて阿難と座にいる一人一人を見つめ、優しく言いました。「阿難よ、もし衆生がこの経を誦し、この呪を持つことができれば、私が詳しく説いたとしても、永遠の時間をかけても語り尽くせないほどの功徳がある。私の教えに従って修行すれば、直ちに菩提を成就し、二度と魔業に妨げられることはないだろう。」
仏この経を説き已(おわ)りて、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、一切世間の天人・阿修羅、及び諸の他方の菩薩・二乗の聖仙童子、並びに初発心の大力鬼神、皆大いに歓喜し、礼を作(な)して去りぬ。
仏陀がこの経典を説き終えると、会場全体が荘厳で喜びに満ちた雰囲気に包まれました。その場にいたすべての生きとし生けるものは仏陀の智慧に深く感動し、心は感謝と崇敬で満たされました。比丘たちは厳粛に佇み、比丘尼たちは合掌し、その眼には理解の光が宿っていました。優婆塞(在家の男性信者)と優婆夷(在家の女性信者)たちの顔には、人生の指針を見出した喜びの笑みが溢れていました。
人間の衆生だけでなく、天上の天人たちも身を乗り出して聞き入り、阿修羅族の顔にさえ珍しく穏やかな表情が浮かんでいました。他方世界から来た菩薩たちは微笑んで頷き、二乗の聖者や仙人たちは物思いに耽っていました。幼い童子たちでさえ、一心に聞き入り、その幼い顔には好奇心と畏敬の念が表れていました。
初めて菩提心を起こした修行者たちの眼には、確固たる決意の光が輝き、前進する力を見出したようでした。さらに驚くべきことに、普段は恐ろしい大力鬼神たちも、今は凶暴な相を収め、恭しく頭を垂れていました。
仏陀の最後の言葉が響き渡ると、全会場から歓喜の情が爆発しました。すべての衆生は、種族や境界を超えて、心から仏陀に頂礼しました。彼らは身を屈め、合掌し、額を地に付けて、最高の敬意を表しました。
この瞬間、すべての分別の心は消え去り、ただ真理への共通の憧れと、仏陀への無限の感謝だけが残りました。
礼拝を終えると、衆生たちは名残惜しそうに立ち上がり、内なる喜びと未来への希望を胸に、ゆっくりと去っていきました。彼らは知っていました。これは終わりではなく、新たな旅の始まりであることを。一人一人が仏陀の教えを携え、それぞれの世界で実践し、自分自身と衆生に解脱と智慧の光をもたらす準備ができていたのです。